山川秀峰 | |
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生誕 |
山川嘉雄 1898年4月3日 京都府 |
死没 |
1944年12月29日(46歳没) 神奈川県二宮町 |
国籍 | 日本 |
教育 | 池上秀畝、鏑木清方 |
著名な実績 | 日本画、美人画、版画、挿絵 |
運動・動向 | 青衿社 |
影響を与えた 芸術家 | 蔦谷喜一[1] |
山川秀峰(やまかわ しゅうほう、明治31年〈1898年〉4月3日 - 昭和19年〈1944年〉12月29日[2])は、日本画家・版画家。本名は嘉雄[2]。美人画で知られる。
京都に生まれる[2]。鏑木清方及び池上秀畝の門人[2]。まず秀畝に師事し花鳥画を学んだ後、1913年に清方に入門し美人画を学ぶ。
1927年、長沢小輔の美術社より新版画「婦女四題」連作4点を随時出版、1928年には『新興版画選』と題して「美人八佳選」の第1回分を川瀬巴水の「日本新八景」とともに出版している。また同年の第9回帝展には「安倍野」(培広庵コレクション)を出品して特選となり[2]、1930年の第11回帝展には「大谷武子姫」を出品して再び特選に入選した[2]。1931年から帝展無鑑査[2]。ほかに渡辺版画店、西宮書院からも新版画の美人画作品を発表しており、これらは当時の時代模様を写したモダンな美人画であった。秀峰は伊東深水、寺島紫明と共に「清方門下三羽烏」と呼ばれた。
1936年には私刊により「をどり十題」を制作する。1939年に伊東深水たちと共に青衿会を設立し[2]、美人画の開拓に努めた[2]。最も清方の画風を受け継いでいたとみられるが、1944年12月29日に疎開先の神奈川県二宮町の別宅で死去[3]。墓所は大田区妙覚寺。
版画の作品は少ないが気品のある美人画を残した。代表作に「素踊」「序の舞」「羽根の禿」などがあげられる。木版画では「舞踊シリーズ」があり、そのうち、「さらし女」の構図が卓抜で印象的である。他には「赤い襟」「東京駅」「信濃路の女」なども優れている。また、雑誌『講談倶楽部』や『キング』の挿絵を描いている。
門人に五十嵐真穂、志村立美、小林秀恒、武藤嘉亭がいる。作家の山川方夫は息子。
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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鷺娘 | 絹本着色 | ホノルル美術館 | 1925年(大正14年) | ||||
花簪の女 | 絹本著色 | 額装1面 | 101x77 | 培広庵コレクション | 大正末期[4]。 | ||
蛍 | 絹本著色 | 四曲一隻 | 212.0x254.0 | 講談社野間記念館 | 1927年(昭和2年) | 第8回帝展 | |
安倍野 | 絹本著色 | ニ曲一隻 | 234x222 | 培広庵コレクション | 1928年(昭和3年) | 第9回帝展特選。浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』に取材[4]。 | |
逝く春/銀鳩 | 紙本著色 | 二曲一双 | 佐久市立近代美術館 | 1929-31年(昭和4-6年) | |||
序の舞 | 絹本著色 | 額装1面 | 181.5x127.0 | 東京国立近代美術館 | 1932年(昭和7年) | 第13回帝展 | |
山内一豊の妻 | 紙本著色 | 額装1面 | 151x181cm | 神宮徴古館 | 1933-42年(昭和8-17年)[5] | ||
弥生 | 絹本着色 | 城西大学水田美術館 | |||||
三人の姉妹 | 絹本着色 | 四曲一隻 | ホノルル美術館 | 1936年(昭和11年) |
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