『新刊展望』1963年9月1日号より | |
誕生 |
1903年6月22日 日本・山梨県北都留郡初狩村 (現:大月市初狩町下初狩) |
死没 |
1967年2月14日(63歳没) 日本・神奈川県横浜市中区本牧間門51付近 旅館「間門園」別棟 |
墓地 | 鎌倉霊園[1] |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 横浜市立尋常西前小学校 |
活動期間 | 1926年 - 1967年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 |
『樅ノ木は残った』(1954年 - 1958年) 『赤ひげ診療譚』(1958年) 『青べか物語』(1960年) 『季節のない街』(1962年) 『さぶ』(1963年) 『ながい坂』(1964年 - 1966年) |
デビュー作 | 『須磨寺附近』(1926年) |
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1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家[2]。本名: (しみず さとむ)。質店の徒弟、雑誌記者などを経て文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説、歴史小説を書いた[3]。
(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる[4]。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)[4]。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある[5])[4]。本籍地は北巨摩郡大草村(現:韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている[6]。実家は武田の遺臣で、北巨摩の大草村若尾(現:韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行・清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある[5]。
1907年(明治40年)、山梨県では8月21日から降り続いた大雨により明治40年の大水害が発生する。大水害では甲府盆地東部の笛吹川流域を中心に多大な被害を出し、郡内でも初狩村が壊滅的被害を受けた。周五郎の一家は大月駅前に転居していたため難を逃れるが、大水害で祖父の伊三郎、祖母の「さく」、叔父の粂次郎、叔母の「せき」を失っている[4]。大水害後、一家は東京府北豊島郡王子町豊島(現:東京都北区豊島)に転居する。
1910年(明治43年)、北豊島郡王子町豊島の豊川小学校に入学した[7]。8月10日、荒川が氾濫して住居が浸水する大被害を受ける。同年秋から神奈川県横浜市久保町(現・神奈川県横浜市西区久保町)に転居。西戸部小学校に転校した。翌年、学区の編成替えで横浜市立尋常西前小学校(現:横浜市立西前小学校)2年に転学した。この頃、父は繭の仲買を営んでいた。また、輸入用麻製真田紐の巻き取り、生糸の仲買、小口金融業、小料理店「甲子屋」の経営、三業組合書記などの職を転々とした[8]。4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志望するようになった。以来、学校新聞の責任を命じられたり、6年生の時には、級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作ったりした。自分で雑誌の表紙を描き、扉絵には詩を付けたりした[8]。
1916年(大正5年)、横浜市立尋常西前小学校卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店きねや(山本周五郎商店)[3]に徒弟として住み込む。しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災し、一旦解散となる。その後、豊橋、神戸に転居。神戸では「夜の神戸社」へ編集記者として就職する[7]。1924年(大正13年)、再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社、文書部に配属。その後、帝国興信所の子会社である会員雑誌『日本魂』(にっぽんこん[3])の編集記者となる[7]。
1926年(大正15年・昭和元年)、『文藝春秋』4月号の懸賞に投じた『須磨寺附近』が掲載され文壇出世作となる[9]。なお、ペンネーム「山本周五郎」の由来として、『須磨寺附近』を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文藝春秋側が誤って山本周五郎を作者名として発表したという説があるが[注 1]、以前にも山本周五郎をペンネームとして使用していた形跡があり定かではない。しかしながら雇主であった店主の山本周五郎は、自らも洒落斎という雅号を持ち文芸に理解を持っていた。そのため、周五郎を文壇で自立するまで物心両面にわたり支援し、正則英語学校(現:正則学園高等学校)、大原簿記学校にも周五郎を通わせている。ペンネームにはそのことに対する深い感謝の念が込められていたと思われる。また「山本周五郎」以外には、俵屋宗八[注 2]、俵屋宗七、横西五郎、清水清、清水きよし、土生三、佐野喬吉、仁木繁吉、平田晴人、覆面作家、風々亭一迷、黒林騎士、折箸闌亭、酒井松花亭、参々亭五猿、甲野信三などを用いたことが知られている。
文壇デビューしたものの順風満帆とはいかず、原稿の掲載を断られ、山本周五郎商店からも援助を渋られるようになり、失恋もあって精神的にも経済的にも窮した。こうした時期、1928年(昭和3年)夏から翌年秋にかけての時期、当時は東京湾北岸の漁村だった浦安に暮らした。浦安時代は、同地をモデルにした『青べか物語』に結実するなど作品に大きな影響を与えている[3]。東京に移った後の1930年(昭和5年)、病気で入院した慶応義塾大学病院で知り合った看護師見習の土生きよえ(きよ江)と結婚した[3]。
1931年(昭和6年)、文学仲間であった今井達夫に勧められ[3]東京の馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。それまでは博文館の『少年少女 譚海』を中心に少年探偵物や冒険活劇を書いていた周五郎だったが[12]、尾崎士郎、鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の『キング』に時代小説を書くようになった[12]。当時の『キング』は発行部数140万部と雑誌界の首位にあった[注 3]。また講談社には時代小説を書くと決めていたらしく、山本周五郎のペンネームだけを使った[14]。
1936年(昭和11年)、講談社から新進作家として扱われ、同社発行の『婦人倶楽部』『少年倶楽部』『講談倶楽部』『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載されるほどの売れっ子となった。また博文館も周五郎の「大人向け」作品を掲載するようになった。
太平洋戦争下の1942年(昭和17年)、『婦人倶楽部』で各藩の女性を扱う「日本婦道記」(6月から12月までの7回掲載)が企画された。周五郎は3話(「松の花」「梅咲きぬ」「箭竹」。全くの創作で架空の女性を描いている)担当し、残りの4話(いずれも実在の人物で、それなりの周知されている人物)は他の作家が担当した。なお、「日本婦道記」は『主婦之友』の「日本名婦伝」(吉川英治)に倣ったものだという[15]。
1943年(昭和18年)、第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退[注 4]。直木賞史上、授賞決定後としては唯一の辞退者となった[注 5]。辞退の理由として[注 6]、完全な仕事を目指した初版『小説 日本婦道記』出版の前であったこと、改稿以前の『婦人倶楽部』版が受賞対象になったことなどが挙げられる[19]。また、『主婦之友』の「日本名婦伝」の著者で、選考委員だった吉川英治の選評への反発の可能性も指摘されている[20]。なお、この頃、周五郎の年間執筆数の約6割 - 7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繋がったと考えられている[21]。
米軍による日本本土空襲が激化すると、周五郎は隣組班長として妻子だけでなく住民の防空壕避難を指揮することもあった[3]。終戦直前の1945年(昭和20年)5月に妻のきよえが亡くなると、本棚で棺桶をつくり弔った[3]。
1948年(昭和23年)、旅館「間門園」(神奈川県横浜市中区本牧間門51付近)を仕事場とする[22]。
1967年(昭和42年)2月14日7時10分[1]、間門園別棟で肝炎と心臓衰弱のため死去。享年65(満63歳)。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名は恵光院周嶽文窓居士。
1988年(昭和63年)、功績を記念し、新潮社などにより山本周五郎賞が創設された[23]。
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周五郎は元々、純文学の作家を目指していた。しかし、デビュー後は劇作や童話、少女小説の執筆を主とし、1932年(昭和7年)に大衆色の強い講談社の雑誌『キング』に「だゝら團兵衛」を発表して以降は大人向けの大衆娯楽雑誌を作品活動の舞台とするようになる[27]。そのため、一般からは大衆小説の作家とみなされ、新進、中堅時代には純文学作家や批評家からはほとんど黙殺された[9]。だが周五郎は純文学と大衆文芸との区別を認めず[28]、「面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない」[29]という信念の下、最大多数の読者を対象とする小説を書き続けた[注 7]。
周五郎研究家の竹添敦子は、純文学を志しながら少年少女や大衆向け雑誌が作品発表の場になっていることに葛藤を感じていた周五郎は、35歳頃を転機に「眞実の人間が書ければ『面白さ』は附いて来る」(『愛妻日記』昭和13年11月22日付)と達観するようになり、それは妻きよえの存在が大きかったと分析している[3]。
作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れた作品がある。
周五郎の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも周五郎の作風である。
そうした周五郎作品の特徴を『聖書』に準えたのは映画監督の篠田正浩。篠田は周五郎が庶民の哀感のようなところにスポットを当てたとする見方に対して「それは嘘です。あの人は庶民なんか信じていないでしょう。そういう読まれ方をされていることが口惜しかったのではないですか」とした上で周五郎作品に通底する「聖なるものといえる存在」を指摘。「むしろキリスト教的な人間の、この世に聖なるものがなかったら人間は存在する理由がない、という前提が山本周五郎にはある。聖なる心をいだいていながら、汚辱にまみれた世の中で、まるで見えていないものを発掘するんです。だから、観念小説ですね。どこにもリアリズムがない。もうほとんど空想小説といってもいいぐらいでしょう。聖書のように書いているんじゃないかな、物語をね」と独自の周五郎像を披露している[32]。
またハードボイルド作家の生島治郎は『樅ノ木は残った』はハードボイルド・タッチの作品であるとした上で[33]、「山本周五郎自身、かなり海外の小説を読んでいるんじゃないかな。そういうテクニックを使っているということですよね」「おれは彼がチャンドラーを読んでたような気がする」とこれまた独自の周五郎像を披露している[34]。さらに生島は周五郎作品が通俗小説から脱皮して純文学作品に到達したという周五郎の文学観にも反するような評論がまかり通っていることに対して、「どう考えても、山本周五郎氏の作品は純文学ではあり得ない。私見によれば、上質な娯楽小説である」「上質な娯楽小説を書こうと努力している作者に対して『通俗小説から脱皮して』という評価は、純文学かぶれの半可通が讃め言葉と錯覚して口走った世迷言にすぎない」と断じている[35]。
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