山東 京伝(さんとう きょうでん、旧字体:山東 京傳、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。浮世絵師としては北尾政演(きたおまさのぶ)と号し、葎斎(せいさい)、北尾葎斎政演、北尾京伝、山東政演とも号して寛政元年(1789年)まで活動した。作画期は安永7年ころから文化12年前後(1778年-1815年)であった。寛政の改革における出版統制により手鎖の処罰を受けた。現在の銀座1丁目に喫煙用の小物販売店「京屋」を開き、自分がデザインした紙製煙草入れが大流行した。
本名は岩瀬醒(いわせさむる)、または田臧(のぶよし)。一説に排田または灰田[注 1]。狂歌名を身軽折輔と号した。幼名は甚太郎。通称は京屋伝蔵または田蔵。字は伯慶。後に酉星(有儕)。戯作号として山東庵、山東窟、山東軒、珊洞散士、鼯鼠翁、臍下逸人、洛橋陳人、甘谷、菊亭、菊軒、菊花亭、醒斎、醒々斎、醒世老人と号す。江戸深川の出身[1]。後に京橋銀座1丁目(新両替町)、さらに同所東側。この店で京屋といって煙管、紙製煙草入れなどを商い、その傍ら戯作も著述、後半生はこの方面で活躍した。
父は岩瀬伝左衛門。母は大森氏。弟・相四郎[注 2]は、後の合巻作者の山東京山[注 3]。黄表紙・狂歌作者の黒鳶式部(実名よね)は実妹[注 4][3]。
青年時代には、長唄と三味線を堺町の松永某に学び、絵画を北尾重政に学び、北尾政演と号し、挿絵や錦絵を描いた[1]。また、十八大通の一人と言われた浅草蔵前の札差文魚と親交があり、吉原に遊んで家に帰るのは月のうち5、6日に過ぎなかったとも言われている[4]。
『江戸生艶気樺焼』の主人公が色男を気取る獅子鼻ののうらく息子艶二郎だったために、当時吉原では色男を気取る自惚れ屋を艶二郎と呼ぶのが流行した[要出典]。錦絵はほぼ天明年間に集中し、寛政3年以降の京伝の作品はほとんど蔦屋重三郎・鶴屋喜右衛門が版元となっている。京伝の合巻は特に挿絵の面白さが魅力で、大変な人気を誇っていた。考証的な仕事、風俗絵巻も残している。
寛政元年刊行の黄表紙『黒白水鏡』で作者石部琴好とともに画工として筆禍を得て[5]次第に画壇から遠のいた。弟子には山東鶏告(さんとうけいこう)・山東唐洲らがいるが、後に曲亭馬琴の入門を断ったように弟子は取らなくなった。
仲間と飲み食いをする際に当時は代表者1名が総額を支払うことが一般的であったのに対し、総額を出席者の頭数で均等に割って勘定を済ませることから、そのやり方は「京伝勘定」と呼ばれた[6][7]。こんにち割り前勘定(割り勘)と呼ばれる支払い精算方式の祖と呼ばれる[6][7]。山東京伝の友人でもあった曲亭馬琴は、京伝が吝嗇(けち)であったり、金を惜しんだからではなく、仲間との間の金銭による「もつれ」をきらったこと、淡交を望んだためだと書き記している[8]。
新吉原の花魁を身請けし、正妻としたが死去したため、再び身請けし後妻とした。
文化13年9月7日(1816年10月27日)、胸痛の発作により死去した。享年56。東京都墨田区両国の回向院に「岩瀬醒墓」(京伝)・「岩瀬百樹之墓」(京山)、「岩瀬氏之墓」(伝左衛門)がある[9][10]。法名は弁誉智海京伝信士。京伝が没した翌年、弟の京山が浅草寺境内に「机塚」の碑を建立した[11]。
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