川口 松太郎 | |
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1954年 | |
誕生 |
松田 松一 1899年10月1日 東京市浅草区浅草今戸町 |
死没 | 1985年6月9日(85歳没) |
墓地 | 雑司ヶ谷霊園 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 石浜小学校卒 |
ジャンル | 小説、戯曲 |
代表作 |
『鶴八鶴次郎』(1936年,のち劇化) 『明治一代女』(1936年,のち劇化) 『愛染かつら』(1942年) 『新吾十番勝負』(1957-59年) 『しぐれ茶屋おりく』(1969年) |
主な受賞歴 |
第1回直木三十五賞(1935年) 毎日演劇賞(1959年) 菊池寛賞(1963年) 吉川英治文学賞(1969年) 文化功労者(1973年) |
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川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年(明治32年)10月1日 - 1985年(昭和60年)6月9日)は、日本の小説家、劇作家。本名松田松一とする資料もある[1]。東京市浅草区生まれ。芸道物、明治物、時代物、現代風俗物と広く執筆。巧みな筋立てと独自の話術で庶民情緒を描いた大衆小説で多くの読者を獲得した。また、松田昌一の名で映画・演劇脚本も手がけ、大映専務などを務めた。特に、新生新派の主事として自作小説の脚色や演出を担当、昭和期の新派に欠かせない人気作家となり、作品の多くは新派の代表的演目となった。第1回直木賞受賞者で、映画化され大流行した『愛染かつら』の作者としても知られる。芸術院会員。文化功労者。
後妻は女優の三益愛子。三益との子は俳優の川口浩(長男)、川口恒(次男)、川口厚(三男)[2]、元女優で陶芸家の川口晶(国重晶)(長女)。
東京市浅草区浅草今戸町(現在の東京都台東区今戸)の今戸八幡境内下に住む、島岡春吉姉よね私生児川口竹次郎庶子認知入籍とされると戸籍にはあり、実の両親が誰かは知られていない[3]。島岡よねがどういう人物かは分からず、養父の川口竹次郎は大酒飲みの左官職であった[3]。かつて今戸に弾左衛門支配下の浅草新町が存在したことから被差別部落出身という説がある。また華族の落胤との説もあり[3]、赤ん坊の頃に養育費を送られた時の奉書があったのを本人は覚えているが関東大震災で焼けてしまった[4]。
今戸小学校に通い、4年生で中退して洋品屋の丁稚として働くが、義務教育が2年延長されたので山谷堀小学校に入る。山谷堀小学校の同級生に溝口健二、前田重信(狐泉)がいた[5]。優等生で卒業したが、上の学校には進めず、山谷町の質屋、浅草伝法院脇の古本の露天商、象潟警察署の給仕などの仕事をし、逓信省の電信技師の試験を受けて埼玉や栃木の電信局にも勤めた[4]。栃木県芳賀郡にあった祖母井郵便局には1915年(大正4年)から1年間勤めた。この頃から小説を書き始め、今戸に越して来た生田蝶介の世話で、17歳の時に『講談雑誌』に「流罪人藤助」を掲載され文壇デビューを果たす[5]。この生田の勉強会では前田とともに岩田専太郎とも親しくなり、博文館系の雑誌に新講談、探偵実話、コマ絵小説などに岩田の挿絵を添えて持ち込んで、原稿料を稼いだ。
19歳の時に養父が亡くなり、養母も実家に帰り、天涯孤独の身となる。麹町平河天神境内の借間に住み、その後『文藝倶楽部』編集長の森暁紅の紹介で、深川の講談師で速記講談の売れっ子だった悟道軒円玉の家に住み込んでその口述筆記を手伝い、漢詩や江戸文学の素養も積んだ[5]。また円玉の紹介で久保田万太郎に師事し、また久保田の紹介で小山内薫の脚本研究会に参加、やまと新聞の記者などを勤める。1922年(大正11年)に坪内逍遥らが選者となって帝国劇場創立10周年記念の戯曲募集があり、松太郎の応募した「出獄」が、永井龍男らとともに入選した[4]。
1923年(大正12年)の関東大震災の後、小山内の薦めで大阪のプラトン社に岩田とともに勤め、直木三十五と共に働き、『苦楽』の編集に当たる。1926年(大正15年)に帰京し、小説や随筆、戯曲などを執筆[5]。1930年頃からは『講談倶楽部』で、現代物小説や映画読物などを執筆し、1931年(昭和6年)から翌年にかけて連載した「女優情艶史」は評判が高く、次いで時代物の「湯檜曾の平太郎」「萩寺長七」などを執筆。 1933年(昭和8年)11月、不良華族事件の捜査の過程で文士らによる常習賭博が明らかになり[6]、久米正雄、 里見弴らとともに検挙され[7]、罰金刑を受ける。
1934年(昭和9年)に『オール讀物』に掲載した明治時代の芸人世界を舞台にした人情もの「鶴八鶴次郎」の評判が良く、1935年(昭和10年)から老舗の料理屋をめぐる人情話「風流深川唄」を連載。これらの明治物により、この年の第1回直木賞で、当時菊池寛と親しかった『日の出』編集者の和田芳恵、『講談倶楽部』編集者萱原宏一などの推薦で受賞。続いて花井お梅の事件をモデルにしたと言われる『明治一代女』執筆。その後『愛染かつら』は身分違いの男女の恋愛とすれ違いの展開で、当時のベストセラーとなり、田中絹代・上原謙の主演による映画化も爆発的なヒットとなって、一躍花形作家となった。
1940年(昭和15年)に劇団新生新派主事となり演劇界で活躍[8]。また戦後の1947年(昭和22年)に大映製作担当専務、監査役となり、映画界にも貢献。この年『日本小説』創刊号では、和田芳恵の依頼で關伊之助のペンネームで書いた現代ものの中編小説「裸婦」も評判となった[9]。1949年(昭和24年)に直木賞が再開されると選考委員となり、以後第80回まで30年間務める。
数多くの時代小説や恋愛小説などを書き、時代小説では『新吾十番勝負』『皇女和宮』『女人武蔵』、現代ものでは銀座の女達を描く『夜の蝶』、京都の映画業界と色街を題材にした『古都憂愁』、長編自伝小説『破れかぶれ』などが代表作。妻の死後『愛子いとしや』を上梓して話題となった。『新吾十番勝負』のあとがきでは「私は自分をストオリイテラーだと思っている。王朝時代には『語りべ』という職業があったと聞くが、私はその『語りべ』になりたい」と述べている。『しぐれ茶屋おりく』は2007年(平成19年)、ロイヤル・タイラーによって英訳が刊行された。
1952年(昭和27年)から1959年(昭和34年)までミス・ユニバース日本大会、1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)までミス・ワールド日本大会の審査委員長も務めた[10][11]。
1960年(昭和35年)に明治座取締役制作部長、浪花楽天地監査役。東宝のプロデューサー池野満の企画により[12]、劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、中野実、北條秀司、菊田一夫で「劇作家四人の会」を結成[13]。1964年(昭和39年)、文京区小石川水道町(現在の春日)へ移住、ここから亡くなるまで約20年間暮らすこととなる。1966年(昭和41年)、日本芸術院会員(第三部・演劇)。1973年(昭和48年)、文化功労者。
1982年(昭和57年)1月18日、後妻・三益愛子に膵臓癌により71歳で先立たれる。その頃から体調を崩して入退院を繰り返し、三益の死から3年後の1985年(昭和60年)6月9日、肺炎により東京女子医科大学病院にて死去。享年85歳[14]。没後、晩年の傑作『一休さんの門』の続編『一休さんの道』約千枚の原稿が発見され、新聞に連載された。のちに浅草観音堂東の三社境内に、「生きるということむずかしき夜寒かな」という句碑が建てられた[15]。春日の自宅建て替えを兼ね完成した重厚なデラックスマンション“川口アパートメント”は現存。筒井康隆の小説『大いなる助走』の鰊口冗太郎のモデルである。
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