十二代目 | |
2007年 | |
屋号 | 成田屋 |
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定紋 | 三升 |
生年月日 | 1946年8月6日 |
没年月日 | 2013年2月3日(66歳没) |
本名 | 堀越 夏雄 |
襲名歴 | 1. 市川夏雄 2. 六代目市川新之助 3. 十代目市川海老蔵 4. 十二代目市川團十郎 |
俳名 | 柏莚 |
別名 | 三升屋白治(作者) |
出身地 | 東京都 |
父 | 十一代目市川團十郎 |
母 | 堀越千代 |
兄弟 | 初代市川壽紅(妹) |
妻 | 堀越希実子(庄司隆雄の娘) |
子 | 十三代目市川團十郎 四代目市川翠扇(舞踊家・女優) |
当たり役 | |
『勧進帳』 - 武蔵坊弁慶 『助六由縁江戸桜』 - 花川戸助六実は曾我五郎 『与話情浮名横櫛』 - 与三郎 「暫」 「若き日の信長」 「雷神不動北山櫻 不動 鳴神 毛抜」 『義経千本桜』 - 佐藤忠信・平知盛・いがみの権太の三役 「伊勢音頭恋練寝刃」 - 福岡貢 「外郎売」 - 曾我五郎 | |
十二代目 市川 團十郎(いちかわ だんじゅうろう、1946年(昭和21年)8月6日 - 2013年(平成25年)2月3日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は成田屋、定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょようぼたん)。日本芸術院会員。位階は正五位。本名は堀越 夏雄(ほりこし なつお)、俳名に柏莚(はくえん)がある。公称身長170cm・体重70kg[1]。息子に十三代目市川團十郎。
十一代目市川團十郎の長男として誕生。父が早世した後は自らの努力で芸を磨く。スケールの大きい骨太な芸格が魅力。重厚な存在感と独特な愛嬌を併せ持つ。市川宗家お家芸の歌舞伎十八番はもとより、荒事、世話物、義太夫狂言、新歌舞伎と多彩な役々を演じ分けた。
1953年10月、『大徳寺』の「三法師公」で初舞台。 当初は歌舞伎を楽しんでいたものの、中学生になると「生まれた家が役者の家だから役者にならなきゃなんておかしい」という思いから、舞台や稽古をわずらわしく感じる様になり、学業もあってしばらく舞台から遠ざかった。1962年に父が十一代團十郎を襲名し、父と共に『助六』に出演した際に自身の芝居のまずさを痛感して一念発起し、「ようやく役者になる決心がついた」という[2] 。 1963年に團十郎門下の勉強会で、初めて『勧進帳』の「弁慶」を演じた。 日本大学芸術学部演劇科に進学後の1965年に父を亡くし、「何もかもがまっくらで、これからオレは役者としてやっていけるだろうかって、とても不安でした」と当時の心境を語っている[2] 。 父亡き後は、後見役となった二代目尾上松緑の指導を受けながら舞台に打ち込み[2] 、やがて円熟期を迎えて歌舞伎界の柱として期待されていたが、晩年には白血病を発症、健康に不安を抱え、治療を受けながら舞台を務めていた。
従兄弟に二代目松本白鸚、二代目中村吉右衛門、初代尾上辰之助がいる。
幼少時は扁桃腺が弱く、よく風邪を引いており、性格も内向的で、ひ弱そうな子どもだったが、青山学院初等部3年の時に体育教師の勧めでラグビーを始めて丈夫になったという[2] 。 自他共に認めるおっとりした性格で、友人達から「おっとり君」、「のんびり閣下」というニックネームを貰っていた。また、折り目正しく、ユーモアのある好人物と評されていた[2] 。
野球好きで、俳優の御木本伸介らとともに「ハンサムズ」という草野球チームを作っていた。ポジションはピッチャーで、左利きであったため、「草野球のサウスポーっていうのは得です、めったに打たれませんから」と述べている[2] 。 競馬観戦も趣味で、新聞にレース予想の連載も持ち、「馬がどっと疾走するのを見るのはこたえられない」と目を輝かせるほどだったが、「ギャンブルで金もうけなんて愚の骨頂ですよ」と勝負の結果には拘りが無かった[2] 。 一方では小学生時代から天体観測を趣味としていたために、宇宙への関心が深く[3]、『宇宙の渚』(日本放送協会)など、宇宙関連のテレビ番組や各種イベントへの出演も積極的に行っていたこともあった。そうしたことから若田光一や野口聡一など日本人宇宙飛行士とも親交が厚かった。
2004年、息子の市川新之助(当時)が十一代目市川海老蔵の襲名を発表した席で、「倅、市川新之助がこの度、團十郎を襲名する運びに相成りました」と発言した。すぐに間違いに気付き「團十郎じゃないや!えらいこっちゃ!」と慌てふためいて、会場が笑いに包まれた。
生前には「おいおい時期を見て團十郎の名を倅に譲り、自分は隠居名を名乗る考えがある」ことを明かしていたという[4]。その場合には2代目團十郎の俳名である「栢莚」を名乗るつもりでいたと考えられている[4]。
「国際化社会になるにあたって、日本人のアイデンティティの拠り所の1つとして歌舞伎を役立てて欲しい」[16]との思いから、青山学院大学文学部客員教授[17]や早稲田大学特命教授[18]を務めるなど、大学教育の場で歌舞伎を通した日本文化の啓蒙・教育活動に熱心に取り組み、文化庁文化審議会委員として日本文化発展を願う立場から積極的に発言を行っていた。また、長男:海老蔵と共に歌舞伎の海外公演にも積極的に取り組んでいた。
また、九世市川團十郎が神奈川県茅ヶ崎市に別荘を所有していた縁や、茅ヶ崎市出身の宇宙飛行士:野口聡一との親交などもあって茅ケ崎駅北口ペデストリアンデッキに十二世團十郎の手形モニュメントが設置され、2010年4月17日に除幕式が執り行われた。
2011年7月1日より、2年の任期で全国骨髄バンク推進連絡協議会の会長に就任していた[19]。