摠見寺 | |
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三重塔(重要文化財) | |
所在地 | 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6367 |
位置 | 北緯35度9分15.20秒 東経136度8分22秒 / 北緯35.1542222度 東経136.13944度座標: 北緯35度9分15.20秒 東経136度8分22秒 / 北緯35.1542222度 東経136.13944度 |
山号 | 遠景山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
創建年 | 天正年間(1573年 – 1591年) |
開基 | 織田信長、剛可正仲(伝・開山) |
正式名 |
遠景山摠見禪寺 安土山摠見禪寺(旧称) |
札所等 | 江州三十三観音25番 |
文化財 | 三重塔、二王門、金剛力士立像、鉄鐔(重要文化財) |
法人番号 | 9160005007149 |
石部神社 |
摠見寺(捴見寺、そうけんじ)は滋賀県近江八幡市安土町下豊浦[注 1]の安土城跡にある寺院。臨済宗妙心寺派[1]。山号は遠景山。
天正年間、織田信長によって安土山中に建立された[1]。創建時、尭照法印が住していたというが、摠見寺は正式な住持とは認めておらず、信長死後に住持となった正仲剛可[注 2]を開山としている[1]。
信長は近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したようである。具体的には、重要文化財に指定されている二王門や三重塔などが挙げられる。18世紀前後には、仁王門、方丈、書院、庫裡、三重塔、鎮守社など22棟の建物があった[1]。嘉永7年(1854年)の火災により、方丈、書院、庫裡など主要な建物が焼失した[1]。その後、徳川家康邸跡と伝えられる場所に仮本堂を建てた。
江戸時代は檀家を持たず、227石5斗の寺領を有していた[1]。
元禄8年(1695年)5月、織田家の宇陀松山藩から丹波柏原藩への転封に伴い、柏原藩主織田信休は大和国松山城下の徳源寺にあった同家の歴代当主織田信雄・高長・長頼・信武の墓を安土城長谷川秀一邸跡に移す。現在も伝長谷川邸跡に四基の五輪石塔がある。
なお、江戸時代には同寺で天和元年(1681年)に信長の百回忌、享保16年(1731年)に百五十回忌、天明元年(1781年)に二百回忌[2]、天保3年(1832年)に二百五十回忌の法事が営まれた。その際には丹波国柏原藩藩主・織田家をはじめとする織田一族や領主である近江国仁正寺藩藩主・市橋家から使者が派遣されている。
明治維新後、寺領の喪失などにより衰退していった。なお、明治18年(1885年)8月1日、内務省は修繕費50円を与えている。
初代正仲の死後、その父玉甫(織田信安)が住職となる。玉甫の死後は、しばらく住職不在となる。元和3年に信雄の仲介で龍安寺西源院の住職寿圭が摠見寺住職を兼務することになる。寿圭は臨済宗妙心寺派の僧侶であり、そのために摠見寺は同派に所属するようになったようである。後に寿圭は妙心寺住職になる。
元和9年(1623年)8月3日二代住職寿圭は死去、その跡目をめぐり、愚門と嶺南(東禅寺)が争論をおこす。幕府の裁決により、織田一族の愚門が後継者に選ばれる。
以後、江戸時代を通じ、歴代の住職は織田家の一族から選ばれることになる。また、3世から10世までの住職は、大和国松山藩(のち丹波国柏原藩)藩主の養子となった[2]。
公的な歴代の住職は以下の通りである。
代 | 氏名 | 別名 | 在職期間 | 享年 | 続柄 |
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- | 尭照 |
不詳 | - | ||
1 | 正仲 |
剛可 | 不詳 - 慶長16年 不詳 - 1611年1月8日 |
- | 織田信安の三男 |
- | 玉甫 |
織田信安 常永 |
不詳 | - | 織田敏信の次男 |
2 | 寿圭 |
雪庭 | 元和3年 - 元和9年 1617年 - 1623年8月3日 |
- | 織田信包の次男 |
3 | 愚門 |
宗哲侍者 | 寛永16年 - 貞享3年 1639年 - 1686年12月7日 |
- | 織田信当の長男 |
4 | 宗訓 |
元禄3年 - 正徳3年 1690年 - 1713年5月18日 |
- | 津田頼房の息子 | |
5 | 宗諄 |
藤助 泉山 |
正徳5年 - 不詳 1715年 - 不詳 |
59 | 織田長清の七男 |
6 | 宗忍 |
不詳 - 明和2年 不詳 - 1765年 |
- | 津田長邦の六男 | |
7 | 宗弘 |
不詳 | - | 津田長邦の息子 | |
8 | 宗篤 |
不詳 | - | 津田頼張の息子 | |
9 | 宗軾 |
不詳 | - | 沖政教の息子 | |
10 | 宗敦 |
不詳 | - | 津田頼道の養子 |
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6367