『文子』(ぶんし)は、中国古代の書籍のひとつ。『漢書』芸文志では道家に含める。『通玄真経』(つうげんしんけい)とも呼ばれる。
『漢書』芸文志で班固は『文子』の著者を老子の弟子で孔子と同時代の人とする[1]。一方、『史記』貨殖列伝に范蠡とともに登場する計然(けいぜん)もまた文子といった[2]。この計然は計研[2]とも計倪[3]ともいう。李暹の『文子』注は計然と『文子』の著者である老子の弟子を同一人物とする[4]。
『文子』の中に「平王問文子曰」という文があるのは上記と時代が合わず、班固は仮託であろうかと疑っている[1]。
現代では『老子道徳経』は戦国時代の書と考えるのが一般的であるので、『老子』を引用する『文子』もそれ以降の書であり、孔子の同時代人や范蠡の師を著者とする説は成りたたない。
『文子』は『漢書』芸文志では9篇、『隋書』経籍志では12巻とする。現行本は「道原・精誠・九守・符言・道徳・上徳・微明・自然・下徳・上仁・上義・上礼」の12篇から構成される。
内容は『老子道徳経』を敷衍したものだが、文章の大部分が『淮南子』と共通する。
唐の玄宗は道教の科挙(道挙)を行い、「崇玄学」という学校を設けて、『文子』を『老子道徳経』『荘子』『列子』とともに学ばせた[5]。天宝元年(742年)には文子を通玄真人、その書物を『通玄真経』と名付けた[6]。
『日本国見在書目録』に『文子』12巻が見え、日本にも早くから伝わっていた。江戸時代には入江南溟の校本が出版された[7]。
李暹(北魏の人かという)の『文子』注が『新唐書』[8]や晁公武『郡斎読書志』に見えるが、現存しない。
『道蔵』洞神部玉訣類には唐の徐霊府(黙希子)による『通玄真経注』、宋の朱並の注(7巻まで)、元の道士である杜道堅による『通玄真経纘義』(文子纘義)が収録されている。
現代の注釈書に王利器『文子疏義』(中華書局2009)がある。
上記のように班固がすでに仮託を疑い、唐の柳宗元は「辯文子」を書いて他の書からの剽窃が多く、往々に文義が合わない箇所があるのを問題にした[9]。清の姚際恒『古今偽書考』は柳宗元に賛成し、全部が偽書とは言えないが、おそらく李暹が加えた他書からの内容が混ざっているとする[10]。清末の陶方琦は現行の『文子』のほとんどが『淮南子』からの引用であることを指摘し、『漢書』のいう『文子』とは異なり、魏晋以降の人が『淮南子』を剽窃して作ったものとした[11]。
ところが、1973年に定県八角廊村(現在の河北省定州市南城区街道八角廊村)の前漢の中山懐王劉修の墓から『文子』の竹簡が発見され、その多くが現行本と一致したため、少なくとも魏晋以降の偽書とする説は成りたたなくなり、現在は再検討が行われている[12]。