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『旧唐書』(くとうじょ、繁体字: 舊唐書; 簡体字: 旧唐书; 繁体字: 舊唐書; 拼音: Jiù Tángshū; ウェード式: Chiu T'ang-shu)は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書[1]。二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。
当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
完成と奏上は945年(開運2年)6月[2]だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立てたり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなどの問題があった。なお、北宋時代に『新唐書』が編纂されているが、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。[要出典]
「本紀」20巻、「列伝」150巻、「志」30巻の計200巻から成る。紀伝体の書である。
『旧唐書』「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には、「倭国伝」と「日本国伝」の2つの記述もあり、「倭国」の記述に続く「日本」においては、「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。[4]」とあり、「日本の国は、倭国の別の種なり。 その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」そして続いて言い分が異なる二例を挙げ、まず「或いは曰く、倭国は自ら其の名が雅でない事を悪(にく)み、改めて日本と為す」、しかし続いて「或いは云ふ、日本は旧小国。倭国の地を併せる。其の人、入朝する者、多くは自ら矜大(傲慢)、実(真実)をもって対(こた)えず。故に中国、焉(これ)を疑う。」 総括として前者の言い分には懐疑的であり、後者の見解により「日本の国は、倭国の別の種なり。 その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。」の言葉となっている。 そして地勢が述べられ、「又云う、その国境は、東西南北各数千里、西と南の境界は大海に全て至り、東と北は大山が有る為限られている。山の外は即ち毛族の国である。」と記述されている。
そして、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。異論も存在していて、例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性を指摘する[5]。大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。