本居長世 もとおり ながよ | |
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1935年頃撮影 | |
基本情報 | |
出生名 | 本居 長世 |
別名 |
本居 長豫 本居 一浩(もとおり いっこう) |
生誕 | 1885年4月4日 |
出身地 |
日本 東京府下谷区御徒町 (現:東京都台東区) |
死没 | 1945年10月14日(60歳没) |
学歴 | 東京音楽学校卒業 |
ジャンル | 童謡 |
職業 | 作曲家 |
本居 長世(もとおり ながよ、1885年(明治18年)4月4日 - 1945年(昭和20年)10月14日)は、日本の作曲家。数々の童謡で知られる。晩年は長豫と称した。
1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町(現:東京都台東区)に生まれる。国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。
母は並子、父は本居家の婿養子である国学者の雨宮干信(ゆきのぶ)。生後1年で母と死別。並子の死後、婿養子であった父は本居家に馴染めず、やむなく家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1902年(明治35年)東京音楽学校予科に入学。幸田延、アンナ・レール、ラファエル・フォン・ケーベルにピアノを師事した[1]。1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。1909年(明治42年)器楽部のピアノ授業補助、翌1910年(明治43年)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志すが、1915年(大正4年)の脳溢血の後遺症による右手指の障害で断念[1]。このときの教え子に中山晋平[2]や弘田龍太郎[3]がいる。1918年(大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手、藤山一郎(東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた)である。また、本居長世は宮城道雄や吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。
折から、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、従来の唱歌に代わる「童謡」と呼ばれる新しい歌が人気を博していた。これに呼応し1920年(大正9年)中山晋平の紹介によって斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』より『葱坊主』を発表。同年、新日本音楽大演奏会で発表した『十五夜お月さん』は、長女みどりの歌によって一躍有名となり[4]、以後野口雨情等と組んで次々に童謡を発表する(みどりは童謡歌手の第1号となり、童謡歌手のレコード吹き込み第1号ともなった[5])。その後、次女貴美子(後に三女若葉も)等とともに日本各地で公演を行った。1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られた。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、本居長世も2人の娘とともに参加し、アメリカ合衆国各地で公演を行った[6]。1945年(昭和20年)肺炎により死去。墓所は谷中霊園。
東京都目黒区の天台宗瀧泉寺(目黒不動尊)境内には、近隣に居住していた本居長世を記念して『十五夜お月さん』の歌碑が建てられている。
など