まつばやし しゅうえ 松林 宗惠 | |
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大乗刊行会『大乗 : ブディストマガジン』第16号(1965)より | |
本名 | 松林 宗惠( しゅうえ) |
生年月日 | 1920年7月7日 |
没年月日 | 2009年8月15日(89歳没) |
出生地 | 日本・島根県江津市桜江町 |
職業 | 映画監督 |
活動期間 | 1942年(昭和17年) - 2009年(平成21年) |
活動内容 | 劇映画、テレビ映画等の監督、演出 |
主な作品 | |
『人間魚雷回天』 『社長シリーズ』 『連合艦隊』 |
松林 宗惠(まつばやし しゅうえ、1920年(大正9年)7月7日[1][2] - 2009年(平成21年)8月15日[2])は、日本の映画監督。元海軍士官で、僧侶でもある。法名、釈 宗惠(しゃく しゅうえ)。
島根県江津市桜江町(元邑智郡桜江町)[1]の浄土真宗の寺の五男に生まれる。小学校から井原村満行寺(現・邑智郡邑南町)に移り、中学は広島新庄中学に入学して2年生から広陵中学(現・広陵高校)に転校し、広島市へ出た。1938年(昭和13年)に卒業した後には京都へ進み、1941年(昭和16年)に龍谷大学専門部を卒業[1]。日本大学芸術学部に移り[1]、在学中の1942年(昭和17年)には映画に仏心を注入したいと考え、東宝演出助監部に入る[1][3]。
1943年(昭和18年)、学部を短縮卒業して[要出典]海軍第3期兵科予備学生となり[1]、1944年(昭和19年)には海軍少尉に任官され、部下150名を連れて南支那廈門島の陸戦隊長となる。戦後は復員して東宝への復職を経て、東宝争議に際し渡辺邦男や斎藤寅次郎らに従って新東宝に移った[1]。
1952年(昭和27年)に上原謙主演の『東京のえくぼ』で初監督[1]。藤本真澄プロデューサーの東宝復帰に伴い、1955年(昭和30年)に新東宝を退社して東宝に復帰[1]。以降は、森繁久彌主演の『社長シリーズ』をはじめとする喜劇や『連合艦隊』をはじめとする戦争映画など、多岐にわたる68本の劇映画を監督した[1][3]。
そのほか、テレビドラマの演出なども担当して1980年(昭和55年)からはフリーとなり、1990年代以降は主に講演活動などに従事していた。
2004年(平成16年)3月には、故郷である江津市桜江町の「水の国/ミュージアム104"」内に、「松林宗恵映画記念館」が開館した[4][5]。
2009年8月15日午前7時10分に心不全で死去。89歳没。同年9月10日には東宝スタジオにて「お別れ会」が行われ、追悼の辞を述べた司葉子ら芸能界関係者や安倍晋三元首相などが出席した[6][7]。生家の福泉寺に墓所がある。
2020年(令和2年)には江津市総合市民センターにて展示会「松林宗恵生誕100周年記念展示」が行われた[4]ほか、2022年には川越まちづくり協議会による『川越かるた』の読み札の1枚に挙げられている[8]。
自らの作家性よりも脚本の意図に忠実に撮影する職人気質で知られるが、仏心を描こうと常に心がけていたという。先輩の黒澤明や市川崑のように華々しい映画賞に恵まれる存在ではなかったが、大ヒットシリーズと特撮超大作のどちらも着実にこなし、黒澤や市川が不在だった1960年代後半には岡本喜八と並ぶ東宝のエース監督であった。市川とは特に仲が良く、1979年の『女王蜂』の応援監督としてまったく違和感のないB班をこなしている。
『太平洋の嵐』などに出演した夏木陽介は、松林は従軍経験から自ら敬礼などの指導を行っていたと証言している[9]。また、戦争経験者であることから一本筋が通った人物であったと評しており、戦争を繰り返してはいけないというテーマを最も重視していたと述懐している[9]。
『世界大戦争』などに出演した女優の星由里子は、松林は冗談を言うなど現場を明るくしようと務めていたと証言しており、楽しい人物であったと述懐している[10]。
『世界大戦争』に出演した宝田明は、松林は同作品に格別の思いを持っていることを語っていたと証言しており、宝田も同作品を松林の代表作に挙げている[11]。