時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 天養元年(1144年)/久安元年(1145年)[注釈 1] |
死没 | 寛喜2年12月28日(1231年2月1日) |
別名 | 中山院または菩提院(法号) |
官位 | 従一位、摂政、関白、太政大臣 |
主君 | 後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流、松殿家 |
父母 | 父:藤原忠通、母:源俊子(源国信の娘)[注釈 2] |
兄弟 |
恵信、覚忠、藤原聖子、近衛基実、基房、藤原育子、九条兼実、尊忠、道円、信円、兼房、慈円、最忠など 養兄弟:藤原呈子 |
妻 |
正室:三条公教の娘 藤原忠子(藤原忠雅の娘) 堀川局(藤原行雅の娘) 徳大寺公保の娘、 民部大輔家実の娘 二条院典侍督局 妾:藤原伊子(藤原伊経の娘) |
子 |
藤原隆忠、藤原家房、藤原伊子、師家、仁慶、行意、実尊、承円、忠房、最守、藤原壽子、兼寛、道弘、聖尊、尊誉、尊澄、良観、一条高能室、 八条院女房西御方 |
松殿 基房(まつどの もとふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原 基房(ふじわら の もとふさ)。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。
松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿 関白(まつどの かんぱく)。
保元元年(1156年)8月、元服と同時に正五位下に叙任され、翌月に左近衛少将に任ぜられる。翌年8月には従三位権中納言となる。その後も内大臣、右大臣、左大臣といった高官を歴任し、兄・近衛基実が早世すると、基実の遺児基通が幼少のため、後任として摂政に補任された。仁安3年(1168年)2月、六条天皇は皇太子憲仁(高倉天皇)に譲位したが、高倉も幼年であるため引き続き摂政を務めた。嘉応2年(1170年)12月には太政大臣を兼ね、高倉天皇の元服にあたって加冠役を務めた。承安2年(1172年)12月には関白に転じた。
基実の死後、その遺領の大半は基実の室であった平盛子のものになっていた。『玉葉』によれば、承安3年(1173年)6月頃に後白河院が基房と盛子の縁談を進めたとされている。だが、基房はその2年前に既に平清盛と親しかった三条公教の娘[注釈 3]と婚姻していたにもかかわらず、太政大臣・花山院忠雅の娘・忠子を北政所にするという事件(『玉葉』承安元年8月10日条)があり[注釈 4]、さらに盛子を迎えることに清盛が反発したため、この話は中止となった。ほかの貴族にも同様の動きがあり、仁安3年(1168年)の大嘗祭に付随して行われる五節舞の帳台試(天皇御前での予行演習)における摂政参入への随行を左近衛大将・藤原師長と右近衛大将・久我雅通が揃って拒否して解任される事件が発生している[注釈 5]。
治承3年(1179年)2月に基房の妻・忠雅女が皇太子言仁親王の養母となった。これは基実の妻の盛子も高倉天皇の養母となっており、その先例にならったことと、基房と平家の連携をはかった後白河院の意向であったとされるが、清盛は基房が基通から摂関家当主の地位を奪おうとしているとみて反発した。同年6月に盛子が死去すると、後白河と基房はその遺領を後白河の管領とした。さらに10月には基房の子・師家が、右中将であった基通を超えて中納言となった。基実-基通の系統に代えて基房-師家を摂関家の正統に位置づけようとする措置であった。基通を擁立して摂関家領の実質的な支配を維持するつもりだった清盛はこれに激怒し、11月、軍を率いて福原から上洛し、クーデターを起こす。清盛の怒りはまず基房に向けられ、関白を解任されて、大宰権帥に左遷された[注釈 6]。基房の身柄は実際に大宰府に送られることになったが、その途上に出家したことで備前国への配流に減免された。治承4年(1180年)12月になってようやく罪を許されて京都に帰還している。
清盛の死後、平家は急速に衰退して寿永2年(1183年)に源義仲の攻勢の前に都落ちするが、平家の都落ちに1度は同道しながら脱け出して京に戻った基通が後白河の寵愛を得て摂政に留任したため、基房の復権はならなかった。だがその後、義仲と後白河の仲が険悪となり、法住寺合戦が起こって義仲が後白河を幽閉すると、基房は娘(伊子とされる)を義仲の正室として[注釈 7]連携した。同年11月、義仲の勢力を背景にして摂政基通を退け、子・師家を内大臣とし摂政に補任させることに成功する[注釈 8]。だが、寿永3年(1184年)1月に義仲が源義経らによって討たれると、師家はたちまち罷免され、基通が摂政に復帰した。以後、基房は政界から引退した。
その後は朝廷における行事・儀式に長老として顔を出すだけだったが、公事・故実に通じた博識として後世まで重んじられた。寛喜2年(1230年)12月28日、87歳の長寿をもって亡くなった。法号は中山院、または菩提院。
基房自身は摂政・関白を務めたものの、権力者の動向に翻弄される生涯を送った。だが、一方で『今鏡』(巻5)にてその才能は高く評価され、政治的失脚後も公事や有職故実に通じた大家として宮廷内では重んじられた。また、現在ではほとんど逸散してしまったものの、日記や有職故実書を著してその説が摂関家においては重んじられていた。
これは、基房が幼少時に実父・忠通の下で育てられて、忠通から九条流・御堂流の有職故実を直接伝授されたこと、共に伝授を受けた異母兄の近衛基実の早世によって九条流・御堂流の口伝を知る者が基房のみになったこと、加えて室の実家である三条家や花山院家(及び分家の中山家)も有職故実に通じた家として知られており、基房は九条流や御堂流のみならず、両家を通じて彼らが奉じていた土御門流や花園流の故実に関しても知識を学び、九条流-御堂流の有職故実の価値を高める努力を欠かさなかったことによる。これに対して忠通の子である九条兼実や基実の子である近衛基通は共に早くに父を失ったためにこうした公事や有職故実の知識を得る機会には恵まれておらず、彼らは政治的な局面では基房と対立する場面があっても、摂関家の故実の唯一の担い手であった基房の知識や学説に対しては常に敬意を払っていた。これは基実の孫・近衛家実や兼実の孫・九条道家が嵯峨に隠棲していた基房を訪ねて教えを受けていることからでも知ることが出来る。更に後鳥羽上皇も内弁の作法の伝授を受けるために秘かに基房を訪ねたことが知られている(『古今著聞集』巻3)。
基房の没後、松殿家自体は衰退するものの、その有職故実の学説は「松殿関白説」などと呼ばれて、近衛家・九条家を始めとする摂関家において重要視され、村上源氏や閑院流が奉じてきた土御門流や花園流の作法を批判して、「正説」(九条良経『春除目抄』巻2など)である松殿関白説を擁する摂家こそが公家社会を主導すべきとする家意識を形成することになる。
※日付=旧暦
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