浜松空襲(はままつくうしゅう)は、第二次世界大戦末期に連合国軍によって行われた、静岡県浜松市とその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の通称。アメリカ軍と艦砲射撃にはイギリス海軍の戦艦も参加した。
浜松とその近郊は、その都市規模に比して多数回の空襲を受けた。その理由として、
第21爆撃機集団による対日都市攻撃被害報告によると、当時の浜松の人口は166,346人。計560機により3,076トンの爆弾を投下したとある。これは横浜大空襲よりも多い機数で多くの爆弾を投下したことになる。
浜松復興記念館に残る資料によると、浜松空襲の死傷者は4649人、建物の倒壊9420棟、焼失2万274棟の被害を出した[2]。総戸数の9割以上が被害を受け、罹災人口は約64%で12万人に達した[2]。
浜松市は市民戦傷者24人に年間25,000円の見舞金を支給している[3]。
駅前の通りに46本あったプラタナスのうち空襲後も3本が残り、1964年(昭和39年)に市民の木となった[2]。
2020年代に入り山口県宇部市の空襲として同市の市史や教材に使用されてきた写真について、浜松空襲ではないかと指摘され、宇部市も写真を浜松市街地と確認したが、写真では松菱百貨店が消去されるなど加工されており誤って掲載された経緯は不明である[4]。