湯浅 譲二 | |
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![]() 文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
基本情報 | |
生誕 | 1929年8月12日 |
出身地 |
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死没 | 2024年7月21日(94歳没) |
学歴 | 慶應義塾大学医学部中退 |
ジャンル | 現代音楽 |
職業 | 作曲家 |
湯浅 譲二(ゆあさ じょうじ、1929年8月12日[1] - 2024年7月21日)は、日本の現代音楽の作曲家。
1929年、福島県郡山市にて開業医、寿泉堂病院(現:寿泉堂綜合病院)二代目院長湯浅大太郎(医学博士[2])の次男として生まれる。芸術愛好家だった父の影響で幼時より音楽に親しむ。郡山市金透尋常小学校の3年生頃からブラスバンドに入り、トランペットを担当した。
旧制福島県立安積中学校を卒業したのち上京し、慶應義塾大学医学部に進む。当時は外科医志望であり作曲は趣味として行うつもりだったが東京で日本の現代音楽の状況を知るうちに「このぐらいなら自分でもできる」と思うようになり1951年、「10年間は面倒みてやるから」との父親の合意のもとに医学部教養課程を中退して作曲の道に進む。詩人・瀧口修造を中心に集まった芸術家グループ・実験工房に加わり、武満徹らと共に活動し電子音楽や自作を含む現代音楽の演奏会の製作にかかわった[3]。
一方で古典的な作曲理論を身につけておく必要も痛感し、大学教養課程での音楽の担当であった評論家・村田武雄の紹介で中田一次に短期間師事している。
1981年よりロジャー・レイノルズの招きでアメリカのカリフォルニア大学サンディエゴ校でブライアン・ファーニホゥらと共に作曲の教職に就いていた[1]。UPICやMUSIC-Nにも果敢に挑み、電子音楽に傑作を残した開祖的存在でもある。
カリフォルニア大学サンディエゴ校[4]教授、日本大学藝術学部客員教授、東京音楽大学客員教授、桐朋学園大学特任教授などを経て、現在、カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授、国際現代音楽協会 (ISCM) 名誉会員。慶應義塾大学アート・センター訪問所員、郡山市名誉市民。
「秋吉台の夏」現代音楽セミナー&フェスティバル[5]では、全国の音楽大学から集った作曲学生に作曲思想を伝授して、2000年代にデビューした作曲家たちに大きな影響を与えた。
作曲の弟子には、藤枝守[6]、田中聰、伊藤弘之、久田典子、伊左治直、植田彰、松本直祐樹、今井智景、中橋愛生、川上統、ジュリアン・ユーほかがいる。
2024年7月21日、東京都内の自宅で肺炎により死去[7]。94歳没[8]。
湯浅が自らの音楽を語る言葉[9]として、次の文句が良く引き合いに出される。「私にとって音楽とは、音響エネルギー体の空間的・時間的推移である」。これはつまり音楽をその音響現象の中に見られるエネルギーの力学的運動として捉えることにより、その音楽の語り口(ナラティヴィティ)を見出そうというものである。このことによって湯浅はジャンルや様式、地域性などを超えたほとんどの音楽がこの言葉によって説明できるとしている。
もう一つ重要な言葉として、「コスモロジー」という言葉も湯浅は多用している。これは個々の人間が持つ個人性、その人の歩んできた歴史背景、学習・経験してきた事柄、さらに地域性、民族性、時代性などを包括する言葉である。これによって個々の作曲家には個性が反映され、作曲家独自のメッセージが生まれると湯浅は解説している。
題名に多用される「プロジェクション」という言葉は、サルトルの言葉「投企(プロジェprojet)」に基づくものである。
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