源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)は、源氏物語を題材にした絵巻物である。源氏物語を題材とする絵巻物は複数存在するが、本項では通称「隆能源氏」(たかよしげんじ)と呼ばれている平安時代末期の作品で、国宝に指定されている作品について述べる。
かつて「隆能源氏」と呼ばれてきた『源氏物語絵巻』は、源氏物語を題材にして制作された絵巻としては現存最古のもので、平安時代末期の制作であるとされている。『伴大納言絵詞』、『信貴山縁起絵巻』、『鳥獣人物戯画』(いずれも国宝)とともに日本四大絵巻と称される[1]。なお、日本四大絵巻には鳥獣人物戯画の代わりに『粉河寺縁起絵巻』をあげる見解も存在する[2]。
本来は源氏物語の54帖全体について作成されたと考えられている。各帖より1ないし3場面を選んで絵画化し、その絵に対応する物語本文を書写した「詞書」を各図の前に添え、「詞書」と「絵」を交互に繰り返す形式である。全部で10巻程度の絵巻であったと推定される。 引目鉤鼻や吹抜屋台といった技法を用いて描かれた。
本絵巻で現存するのは絵巻全体の一部分のみである。
名古屋市の徳川美術館に絵15面・詞28面(蓬生、関屋、絵合(詞のみ)、柏木、横笛、竹河、橋姫、早蕨、宿木、東屋の各帖)、東京都世田谷区の五島美術館に絵4面・詞9面(鈴虫、夕霧、御法の各帖)が所蔵され、それぞれ国宝に指定されている。徳川美術館に所蔵されている3巻強はもと尾張徳川家にあったものである。一方、五島美術館にある1巻弱はもと阿波蜂須賀家にあったものが明治20年頃に他の美術品などと一括して美術商柏木探古に売却され[3]、その後実業家で茶人の益田孝(鈍翁)の所蔵となり、さらに戦後になって東京コカ・コーラボトリングの創業者・高梨仁三郎の所有となり、東急グループの総帥・五島慶太が同人の死の直前に買い取ったものである。
徳川本・五島本とも1932年(昭和7年)、保存上の配慮から田中親美によって詞書と絵を切り離し、巻物の状態から桐箱製の額装に改めたものの、徳川本に関しては、2018年(平成30年)、台紙が反ったり、紙に亀裂が出たりしたという、保存上の理由から、再び巻子本に表装し直された[4]。 このほか、東京国立博物館に若紫の巻の絵の断簡があり、書芸文化院の春敬記念書道文庫に飯島春敬が収集した末摘花、松風、常夏、柏木の詞書の断簡が、その他数箇所に若紫、薄雲、少女、蛍、柏木の詞書の断簡が所蔵されている。但し個人蔵とされているものの中には現在所在不明になっているものもあるとされている[5]。2015年11月13日、徳川美術館により源氏物語絵巻の修理過程で計3面から構図の異なる下絵が見つかったと発表された[6]。
徳川本・五島本が、それぞれ尾張徳川家・蜂須賀家に入る以前の伝来は、徳川義親による駿河御譲本説もあった[7]。ところが、徳川美術館学芸部長の四辻秀紀は、徳川・五島本『源氏物語絵巻』の来歴について、幕末に鷹司家から尾張徳川家、蜂須賀家に子女が嫁いでいることから、この説を否定し、鷹司家子女の嫁入り本として絵巻が贈られた可能性を、以下のように述べている[8]
明治維新に際して蜂須賀家の手を離れた五島本は、その後、古川躬行、蜷川式胤、柏木貨一朗と所蔵者を転々とし、明治末年には益田孝(鈍翁一八四八~一九三八)が入手、徳川本三巻の額面仕立てへの改装に準じて田中親美に額面に改めさせている。戦後に至り益田家を離れた五島本は、瀬津伊之助を経て高梨仁三郎、さらに五島慶太(一八八二~一九五九)の有となり、昭和三十五年(一九六〇)五島美術館の設立に伴ってこれに寄付され、今日に至っている。…これらの絵巻が、大坂夏の陣で豊臣家滅亡に際して徳川家康が蜂須賀とともにその倉庫に忍び入り、略奪した財宝類の中に含まれていたとする俗説が戦前に生み出された。…鷹司家にとって大切な絵巻(春日権現験絵)の一部や模本が何故に尾張徳川家や阿波蜂須賀家にもたらされたのであろうか。天保七年(一八三六)鷹司政煕の娘定子が近衛基前の養女となり尾張徳川家十一代斉温に入輿、一方鷹司政煕の娘幷子が蜂須賀家十二代の斉昌夫人に、鷹司政通の娘標子が蜂須賀家十三代斉裕子夫人となるなど、それぞれに深い婚姻関係にあり、その中で家の宝とも言うべき重宝が贈答されたと考えられる。国宝『源氏物語絵巻』もまた、『春日権現験絵』と同様に五摂家の一つ鷹司家からそれぞれの大名家にもたらされた可能性を視野に含め考えてもよいように思われる。(四辻2010、p.207)
絵巻の詞書(ことばがき)として絵に対応する源氏物語の本文が抄出して書かれている。この本文の内容は青表紙本や河内本といった現在一般的に知られている源氏物語の本文と大筋で同じながら部分的にかなり異なる本文も含んでおり、中には陽明文庫本などの別本とされる本文に近いものを多く含んでいるとの指摘もある[9]。これがもともと異なる本文を持つ写本を元にしたために異なるのか、それとも絵巻物の詞書という性質上もともとの本文を要約するなどの改変を加えたためなのかが不明であり、そのまま『源氏物語』の伝本とみなすことはできない。しかし、現在残っている源氏物語の本文として最も古いもので、平安朝の本文を今日に伝えてくれる現存唯一の重要なものである[10]。また絵詞本文の伝来については、この絵詞本文作成の際に参照した書本(かきほん)が国冬本の系統であり、『河海抄』所引の従一位麗子本に一致するところがあることから、これらの本文系譜が一本に遡及されるとする説が唱えられている[11]。近時、了悟「光源氏物語本事」に見える摂関家伝来の源氏物語本文の記事と、「柏木」巻の詞書の本文特性が別本の保坂本、国冬本に近接するという調査結果とを勘案して、この詞書本文を「摂関家伝領本」群本文と措定し、この本文系譜の祖本に「紫式部日記」に見える紫式部の「源氏の物語」草稿本を想定する論も提出された[12]。
本項で解説する「源氏物語絵巻」は絵師を藤原隆能と伝えることから一般に「隆能源氏」と呼ばれていた。源氏物語を題材にした絵巻物が数多くある中で国宝に指定されているものはこれだけであることから「国宝源氏物語絵巻」と呼ばれることもある。この呼称は所蔵先の五島美術館や徳川美術館のオフィシャルサイトやパンフレットなどにおいてしばしば使用されている。また所蔵先の名前を冠する形で「徳川本源氏物語絵巻」「五島本源氏物語絵巻」等と呼ばれることもある。
源氏物語を題材にした絵巻物は数多く存在し、「源氏物語絵巻」という名称で呼ばれる絵巻物もいくつか存在する。国宝本以外の著名な「源氏物語絵巻」としては狩野尚信によるもの[13]、久隅守景によるもの[14]、狩野栄川によるもの[15]等がある。しかしながら現存している源氏物語を題材にした絵巻物の中では、「隆能源氏」が最も古く、最も著名であることから、単に「源氏物語絵巻」と呼ぶ場合には「隆能源氏」を指すことが多い。
かつてこの「源氏物語絵巻」は平安時代末期に名高い絵師として活躍した藤原隆能が1人でこれを描き上げたと考えられていたために一般的に「隆能源氏」といった呼ばれかたをされていた。しかしながらこの絵巻を藤原隆能の作であるとすることについては特に確証はなく、江戸時代の鑑定家住吉広行(1755年(宝暦5年)-1811年(文化8年))が『倭錦』において言い始めたことであり[16]、「隆能源氏」なる呼び方が広まったのは明治時代以後のことである[17]とされている。
近年の研究の進展に伴って、現存する部分だけでも、顔を描くときの筆致・画風の違いなどから
の4つのグループに、また詞書の書風は
の5つのグループに分かれ、これらはそれぞれ別の制作グループによるものと考えられるようになった。従って、現在では(古い時代の文献を引用する場合や、「かつて隆能源氏と呼ばれていた」といった表現をされる場合[18]を除いて)「隆能源氏」と呼ばれることは基本的に無い。ただし、藤原隆能が本絵巻物を製作したグループのどれかの中にいた可能性はある。ないしは高いと考えられている。
源氏物語絵巻(昭和復元模写)とは、櫻井清香により徳川美術館に保存されている原本を複製した物。最新の科学技術を使って原本を精確に複写した平成復元模写と違い、絵に櫻井清香自身の個性が反映されているため、原本とはまた違った絵画作品となっているとされる。