源重之(狩野安信『三十六歌仙額』) | |
時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 長保2年(1000年)頃? |
官位 | 従五位下、筑前権守 |
主君 | 村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 清和源氏 |
父母 |
父:源兼信、母:不詳 養父:源兼忠 |
兄弟 |
養兄弟:能正、能遠、藤原済時室、 藤原兼家室 |
妻 | 不詳 |
子 | 有数、為清、為業、宗親、女子 |
源 重之(みなもと の しげゆき)は、平安時代中期の貴族・歌人。清和源氏、上野太守・貞元親王の孫で、三河守・源兼信の子。伯父の参議・源兼忠の養子。官位は従五位下・筑前権守。三十六歌仙の一人。
父・兼信が陸奥国安達郡に土着したことから、伯父・源兼忠の養子となった。
村上朝にて、春宮・憲平親王の帯刀先生(たちはきせんじょう)を務め、その際に最古の百首歌の一つである『重之百首』を詠進している。康保4年(967年)10月に憲平親王が即位(冷泉天皇)すると近衛将監となり、11月に従五位下に叙爵する。
円融朝半ば以降は、貞元元年(976年)の相模権守を皮切りに、信濃守・日向守・肥後守・筑前守など地方官を歴任した。またこの間、貞元2年(977年)頼忠家歌合や寛和元年(985年)円融院子日行幸和歌などに出詠している[1]。
正暦2年(991年)以後に大宰大弐・藤原佐理を頼って筑紫に下向。長徳元年(995年)以後は陸奥守・藤原実方に従って陸奥国に下向し、長保2年(1000年)に当地で没したという。享年は60余。
『拾遺和歌集』(13首)以下の勅撰和歌集に66首が入集[2]。家集『重之集』に見える『重之百首』は、百首歌の中で最も古いものである。旅の歌や不遇を嘆く歌が多い。
宮崎県高鍋町の東方にあった老松を見て詠んだ彼の歌「しら浪のよりくる糸ををにすげて 風にしらぶることひきの松」の歌碑がある。現在、地区住民の手によって保護管理されている。
注記のないものは『尊卑分脈』による。