獅子 文六 (しし ぶんろく) | |
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誕生 |
岩田 豊雄 1893年7月1日 日本 神奈川県横浜市弁天通 |
死没 |
1969年12月13日(76歳没) 日本 東京都港区赤坂 |
墓地 | 谷中霊園 |
職業 | 小説家・演出家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学部理財科予科中退 |
活動期間 | 1931年 - 1969年 |
ジャンル | 小説・随筆・評論・翻訳 |
主題 | ユーモア |
文学活動 | 近代劇・演出・新聞小説 |
代表作 |
『悦ちゃん』(1936年) 『海軍』(1942年) 『てんやわんや』(1949年) 『自由学校』(1950年) 『娘と私』(1953-56年) 『大番』(1956年) |
主な受賞歴 |
朝日文化賞(1943年) 日本藝術院賞(1963年) 文化勲章(1969年) |
デビュー作 | 『脚のあるパリ風景』(1931年) |
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獅子 文六(しし ぶんろく、1893年(明治26年)7月1日 - 1969年(昭和44年)12月13日)は、日本の小説家、演出家。本名:岩田 豊雄(いわた とよお)。演劇の分野では本名で活動し、久保田万太郎、岸田国士らと文学座を創立して顧問となった。小説家としては、『悦ちゃん』などのユーモアに富む健全な家庭小説を書いて流行作家となり、戦中は本名で『海軍』を発表。戦後も『てんやわんや』『自由学校』『娘と私』『大番』などで人気を博した。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。号は牡丹亭。愛媛県宇和島市津島町に句碑がある。
母方の祖父は実業家(花火師)の平山甚太。弟の岩田彦二郎は札幌グランドホテル社長。
日清戦争開戦の前年、1893年に、横浜市中区月岡町9番地(現在の横浜市西区老松町の迎賓館付近)に誕生。父の岩田茂穂は、福澤諭吉に学んだのちに、絹織物商「岩田商会」を営んでいたが、豊雄が9歳のおりに死去する。横浜市立老松小学校から慶應義塾幼稚舎に編入学。慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学部理財科予科に進学するも中退。
1920年に、母の岩田あさじが死去。その後に一人暮らしを始めたものの、1920年代前半のフランスが、第一次世界大戦後のフランの下落で、日本とそれほど変わらない生活費でフランスに滞在できることが動機となり、1922年に渡航。現地ではジャック・コポーが主宰するヴィユ・コロンビエ座や、ジュール・ロマンに代表されたフランス現代劇の観劇、研究に没頭する。滞在中に知り合ったフランス人のマリー・ショウミーと結婚し、1925年に帰国。同年に長女の巴絵が生まれる。杉並区和田堀に住み、第一書房の『近代劇全集』の翻訳、フランス滞在時の見聞を題材にした随筆や短編小説を、『新青年』『改造』などの雑誌に掲載することで生計を立てていた。1930年ごろ、妻のマリーが病気のためにフランスへ帰り、そのまま死去。マリーの死去から自身の再婚までは、長女と二人だけの暮らしが続いた。
1932年、築地小劇場を脱退した友田恭助、田村秋子夫妻を中心に結成された新劇の団体「築地座」に、岸田國士、久保田万太郎、里見弴らと共に顧問として関わる。この時期には、演劇関連の仕事、戯曲や翻訳の執筆だけでは生活が立ち行かなくなったことから、「四四、十六」をもじった獅子文六の筆名で、小説家として活動するようになる。1934年に『新青年』に掲載された『金色青春譜』が、長編小説の処女作である。同1934年には富永静子と二度目の結婚をし、千駄ヶ谷に転居。1936年に、最初の新聞連載小説として報知新聞に掲載された『悦ちゃん』は大好評となり、このときに小説家としての獅子文六の筆名が知れ渡ることになった。
翌1937年、岸田國士、久保田万太郎と共に文学座を創立する[1]。「文学座」の命名は岩田のものによる。岸田、久保田と共に文学座幹事(のちに顧問)を務め、岸田、久保田がこの世を去った後は、文学座の最後の精神的支柱として、文学座座員はもとより、文学座を脱退した劇団雲、劇団NLTの面々からも信頼を一手に受けた。
1942年、真珠湾攻撃の「九軍神」の一人を描いた『海軍』で 朝日文化賞を受賞する。この作品がきっかけとなり、戦後に「戦争協力作家」として「追放」の仮指定がされたものの、1ヶ月半後に解除された。1945年12月から1947年までは、愛媛県宇和島市津島町(旧北宇和郡岩松町)に疎開。この地での体験や見聞が、戦後最初の新聞連載小説となった『てんやわんや』、『大番』などの作品に取り入れられた。
1947年10月に再度上京し、神田駿河台の主婦の友社社員寮に住む。1950年2月には、2人目の妻であった富永静子が急死。同年に神奈川県中郡大磯町に転居する。この時期に朝日新聞へ連載した『自由学校』が、翌年に松竹(渋谷実監督)と大映(吉村公三郎監督)で競作映画化される。同1951年、吉川幸子(きっかわゆきこ、男爵吉川重吉の娘)と三度目の結婚。1953年ごろ、長男・敦夫が誕生。
1955年には『青春怪談』が日活(市川崑監督)と新東宝(阿部豊監督)で競作映画化されている。また『娘と私』は、1961年にNHKで『連続テレビ小説・娘と私』としてテレビドラマ化された。1958年には、長男の慶応幼稚舎への進学を考え、東京・赤坂の住宅地に転居。同じ敷地内に、妻の姉の嫁ぎ先である和田小六の家、和田家の娘の嫁ぎ先である都留重人・肥後一郎の家があった[2]。
1963年には日本芸術院賞を受賞、翌年には芸術院会員となる。1969年には文化勲章を受章し、文化功労者となった[3]。同年12月13日に脳出血のため赤坂の自宅で死去。享年77。戒名は牡丹亭豊雄獅子文六居士[4]。谷中霊園に眠る。
1966年から死去するまで、早川書房の演劇雑誌『悲劇喜劇』の監修を務めた。
同時代の流行や諷刺を取り込むことに長けた作品が多く、多くの長編小説が映像化されたが、没後はほとんどが絶版となってしまっていた。しかし、2013年にちくま文庫から復刊された『コーヒーと恋愛』を契機に、表紙や解説などに現在の作家を起用した新装版が、ちくま文庫を中心に、朝日文庫、中公文庫から刊行されている。2017年には『悦ちゃん』がNHK土曜時代ドラマで再びテレビドラマ化された[5][6]。
2019年12月7日~2020年3月8日にかけて企画展・収蔵コレクション展『没後50年 獅子文六展』が神奈川近代文学館において行われた。
演劇関連の著作は、本名の岩田豊雄の名で出版されている。
1950年代から60年代にかけては、これら以外にも、文六の作品を原作とする連続、あるいは単発のテレビドラマが数多く製作された。