白蔵主/伯蔵主/白蔵司(はくぞうす)は、日本の妖狐、稲荷神である。狂言『釣狐』の題材となったとされる。
永徳元年(1381年)に、和泉にある少林寺塔頭の耕雲庵の住侶に白蔵主という僧がいた。白蔵主は稲荷大明神を常に信仰して、毎日法施を怠らなかった。
ある時、竹林にて片足を失った三本足の白狐に出会い、連れて帰って慈育した。この狐には霊性があり、吉凶を告げたり、盗難を防いだりした。
その狐の子孫も三本足であり、寺内に住んでいたという。
白蔵主には狩猟が好きな甥がいたが、白狐はこの甥を恐れ、白蔵主に化けてその甥の家に行き、殺生の罪について語り、戒めた。
しかし、この甥は、狐が白蔵主に化けていることに気付き、鼠の天ぷらで引き寄せ猟してしまうが、狐は最後はなんとか罠を外して逃げる。
この話を題材として狂言『釣狐』が作られたとされる。この狐は狂言師が心をこめたのを感じ、老人に化けて狂言を見てさらに狐の動きを教えたともされる。『釣狐』を演じる役者は上演の際に少林寺を参詣し、祈祷を上げたうえに、境内の逆芽竹を杖として舞台で使用するようになったという[1]。
また、その後の人達によりこの白狐は「白蔵主稲荷」として奉拝された。
この話は江戸時代の地誌『堺鑑』[2]、『難波丸』[3]、『泉州志』[4]、『和泉名所図会』[5]や、江戸時代の随筆『和語連珠』(『和漢故事談』)[6]、類書『和漢三才図会』[7]等に掲載されている。
現在では御神体は秘仏となり御開帳はしないが、昔は何十年に一度の割りで、開帳したとも伝えられる。今日では御前立の狐像のみ、参詣者の希望があれば開帳する。[8] 少林寺では毎年3月21日に春季祭という鎮守白蔵主稲荷の例祭が行われている。
なお『和泉名所図会』の挿絵を担当した竹原春朝斎の子が、後述の『絵本百物語』の挿絵の竹原春泉であり、親子ともに白蔵主の絵を描いていることになる。
京都の龍源院には僧の姿のキツネを描いた屏風がある。日本画家・鈴木松年が、永徳年間の堺で少林寺の僧・白蔵主の飼っていたキツネが吉凶を告げたという逸話をもとに描いたといわれるもので、龍源院に収められたのには、以下のような経緯がある。
1960年(昭和35年)。大阪府に住む人物が龍源院を訪ねた。その者が言うには、家業不振が続くので、行者に見てもらったところ、もし家にキツネを描いた掛け軸や屏風があれば、そのキツネは修行中の身でもっと修行をしたがっているので、早くどこかの寺に収めるようにと言われたという。家には確かに堺の伝説を描いた白蔵主の屏風があったが、収める先の見当がつかなかったところ、行者はキツネの望む寺が京都にあるかもしれないと助言した。そこで京都まで来て歩き回ったところ、龍源院の前で足が動かなくなり、意を決して訪ねたとのことだった。
龍源院でも、かつての和尚が下間に狐窟(こくつ)と銘した逸話があり、キツネと少なからず縁があったため、龍源院の住職は、キツネの屏風に因縁を感じ、申し入れを承諾した。以来、元の持ち主だった家は平穏に暮らすことができた。
この白蔵主の屏風はその後も、龍源院の下間「狐窟」にあり、一般公開されている[9]。
当該項目で記述。
甲斐(現在の山梨県)に伝わる話として以下のように述べられている[10]。
白蔵主とは本来は宝塔寺という寺の僧の名で、彼の甥の猟師・弥作が、キツネを捕えて皮を売って生活していた。彼の住処の近くの夢山という山には老いた白狐がいたが、多くの子ギツネを弥作に捕えられたため、彼を怨んでいた。
そこでキツネは伯父・白蔵主に化けて弥作を訪ね、殺生の罪を説いて狐獲りを戒め、代りに金を渡してキツネ獲りの罠を持ち去った。しかし彼は金を使い果たし、再び金を乞いに伯父の寺を訪ねようとしたので、キツネは寺に先回りして本物の白蔵主を食い殺し、自らが再び白蔵主に成りすまし、キツネ獲りを追い返す。以来50年以上も住職を務め上げた。
あるときに鹿狩りが行なわれ、白蔵主は人に混じってそれを見物していたところ、キツネの正体を見抜いた犬に噛み殺されてしまった。人々はキツネの祟りを恐れ、祠を建てて「狐の杜」として祀ったという。以来、キツネが法師に化けること、または逆に法師がキツネのように振舞うことを「白蔵主」と呼んだという。
妖怪研究家・多田克己によれば、白蔵主の名は「白」は妖狐の一種である白狐の「白」が由来とされ、キツネが化けたのが伯父であることも、伯父の「伯」が「人」と「白」の字の合成であることに暗示されている、と述べている[11]。
この『絵本百物語』に述べられている夢山は、近世以降には「愛宕山」と呼称され、現在の甲府市古府中町にある大泉寺の寺領だった山で、大泉寺には夢山稲荷社がある。夢山には昔二匹の白狐がいて、山から大泉寺の境内に移植された梅の木を返して欲しくて、寺にやってきては毎晩のように鳴き続けた。夢山稲荷社は、鳴き疲れて死んだ二匹の白狐を祀ったものだという。ただし、大泉寺の住職は『絵本百物語』のように狐が僧に化けた話は聞いたことがないという[12]。
淡輪徹斎のところに少林寺の耕雲庵の白蔵主を名乗る僧が訪ねて来るが、 実は狐が化けて騙っていたことが分かり、徹斎の前で女性や武士に化けて見せた。 [13]
狐が僧に化けた話として京都の相国寺に伝わる「宗旦狐」の話や、
寛保時代の雑書『諸国里人談』巻五に記載の「伯蔵主」(沢蔵司、澤蔵司)の話がある[11]。