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この項目では、佐賀県の神埼郡について説明しています。
- 同じ県の隣接する市については「神埼市」をご覧ください。
- 佐賀県の廃止された、千代田町・脊振村と合併・市制施行をし、神埼市となった町については「神埼町」をご覧ください。
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兵庫県にある「神崎郡」とは異なります。 |
神埼郡(かんざきぐん)は、佐賀県(肥前国)の郡。
人口16,322人、面積43.99km²、人口密度371人/km²。(2024年10月1日、推計人口)
以下の1町を含む。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、下記の区域にあたる。
- 佐賀市の一部(三瀬村各町・蓮池町大字古賀・蓮池町大字小松・蓮池町大字見島・大和町大字名尾)
- 神埼市の全域
三根郡は、古くは「肥前国風土記」[1]「和名抄」などに見えて、「和名抄」では「加無佐岐」と記す。
『肥前國風土記』の「神埼郡」[2][3]の条に、
昔、この郡に荒ぶる神がいて、往来する人が多く殺されました。景行天皇が巡行なされた時、ようやくこの神が和らぎました。それ以来、二度と災いは無くなりました[4]。
そのため、神埼の郡とである。『肥前國風土記』では9郷[1]ですが、三根(みね)・船帆(ふなほ)・蒲田(かまだ)・宮処(みやこ)の4郷の記載である。
- 三根郷…『肥前國風土記』[1]で神埼郡三根村を海部直鳥が分郡して三根郡が成立したため、この地が海部直鳥の本拠地であったと思われる。所在地は神崎駅の西の城原川流域と比定。
- 船帆郡…在地[1]の諸豪族が、船で景行天皇が巡行なされた時に供奉した場所で、三根郷の南に位置する地域にあった。
- 蒲田郡…遺称[1]に蒲田津(現在の佐賀市蓮池)があり、城原川が筑後川に合流する地域である。船帆郡のさらに南に位置して、海に面した地域である。
- 宮処(宮所)郡…景行天皇の行宮の置かれた地であり、神埼市千代田町の西南部地域の比定される。
神崎荘は、836年(承和3年)『類聚国史』に[3]天皇の命により新たに、690町の土地開発から始まる。皇室領[3]を経て、院領になる。その後は、白河院領[3]から鳥羽院領、後白河院領へと代々継承されています。鳥羽院領の時代には、院司として平忠盛(平清盛の父)が神埼荘の預所となり、管理するようになった。その子清盛も同じく預所となった。
1292年(正応5年)『河上宮造営用途惣田数注文』には肥前國最大の荘園となったことが記され、その範囲は現在の神埼市、吉野ヶ里町、上峰町、みやき町の一部にいたる3000町とも言われている。城原川流域には、神埼荘の櫛田三所大明神といわれる白角折神社、櫛田宮、高志神社がある。
中世の時期[3]には、蒲田郷・中郷・竹村郷・上條郷・倉戸郷・東郷・西郷・土師郷・本告郷・賀﨑郷があったと推定される。
南北朝時代には、北朝の九州探題の一色氏が勢福寺城、横大路城を拠点とした。南朝は、菊池武安が仁比山城、姉川城を拠点としている。
室町・戦国時代には、江上元種が城原に、菊池氏の末裔の姉川惟安が姉川城に、本告頼景が本告牟田、執行兼貞が仁比山に拠点を置いた。四家は、少弐氏に従って享禄3年(1530年)、田手畷の戦いで奮戦して大内氏に勝利する。
少弐氏の滅亡後は、四家は大友氏に従う。龍造寺隆信が今山の戦いに勝利した後は、姉川氏、本告氏は従属した。江上氏、執行氏は龍造寺と反目している。
江戸時代に全域が佐賀藩領になり、蓮池藩5万2000石(佐賀藩の内高)のうちの3分の1の所領が当郡内にあった。
知行
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村数
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村名
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藩領
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肥前佐賀藩
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33村
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迎島村、柳島村、渡瀬村、箱川村、境原村、託田村、下板村、黒井村、姉川村、横武村、本告牟田村、松隈村、石動村、三津村、大曲村、吉田村[5]、豆田村、田手村、的村、城原村、鶴村、尾崎村、本堀村、神埼村、竹村、志波屋村、田道ヶ里、広滝山、腹巻山、鹿路山、杠山、三瀬山、藤原山
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肥前蓮池藩
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5村
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嘉納村、下西村、小松村、見島村、余江村
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佐賀藩・蓮池藩
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5村
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直鳥村[6]、永歌村、姉村、崎村、古賀村[7]
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- 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の各村が発足。特記以外は現・神埼市。(11村)
- 神埼村 ← 神埼村、本掘村、田道ヶ里、永歌村、本告牟田村[後の西小津ヶ里・枝ヶ里]
- 西郷村 ← 横武村、姉川村、本告牟田村[上記を除く]、竹村、尾崎村
- 城田村 ← 直鳥村、姉村、黒井村、嘉納村、詫田村、下板村
- 境野村 ← 境原村、余江村、下西村
- 蓮池村 ← 古賀村(現・佐賀市、神埼市)、見島村、小松村、佐賀郡蓮池村(現・佐賀市)
- 千歳村 ← 渡瀬村、崎村、迎島村、柳島村
- 三田川村 ← 吉田村、田手村、箱川村、豆田村(現・吉野ヶ里町)
- 東脊振村 ← 大曲村、石動村、三津村、松隈村(現・吉野ヶ里町)
- 仁比山村 ← 的村、志波屋村、鶴村、城原村
- 脊振村 ← 広滝山、腹巻山、鹿路山[名尾を除く]
- 三瀬村 ← 三瀬山、藤原山、杠山(現・佐賀市)
- 鹿路山の一部(名尾)が佐賀郡松梅村の一部となる。
- 明治26年(1893年)7月1日 - 神埼村が町制施行して神埼町となる。(1町10村)
- 明治30年(1897年)6月1日 - 郡制を施行。
- 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
- 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
- 昭和10年(1935年)11月3日 - 蓮池村が町制施行して蓮池町となる。(2町9村)
- 昭和30年(1955年)
- 3月31日 - 神埼町・西郷村・仁比山村が合併し、改めて神埼町が発足。(2町7村)
- 4月1日 - 城田村・境野村・千歳村および蓮池町の一部(古賀の一部)が合併して千代田村が発足。蓮池町の残部が佐賀市に編入。(1町5村)
- 昭和40年(1965年)4月1日(3町3村)
- 平成17年(2005年)10月1日 - 三瀬村が佐賀市・佐賀郡諸富町・大和町・富士町と合併し、改めて佐賀市が発足、郡より離脱。(3町2村)
- 平成18年(2006年)
自治体の変遷
明治22年以前
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明治22年4月1日
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明治22年 - 昭和19年
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昭和20年 - 昭和34年
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昭和35年 - 昭和64年
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平成1年 - 現在
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現在
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神埼村
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明治26年7月1日 町制
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昭和30年3月31日 神埼町
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神埼町
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平成18年3月20日 神埼市
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神埼市
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西郷村
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西郷村
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仁比山村
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仁比山村
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脊振村
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脊振村
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脊振村
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脊振村
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城田村
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城田村
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昭和30年4月1日 千代田村
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昭和40年4月1日 町制
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境野村
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境野村
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千歳村
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千歳村
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蓮池村
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昭和10年11月3日 町制
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昭和30年4月1日 佐賀市に編入 (蓮池、見島 小松、古賀の一部)
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佐賀市の一部
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平成17年10月1日 佐賀市の一部
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佐賀市
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三瀬村
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三瀬村
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三瀬村
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三瀬村
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三田川村
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三田川村
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三田川村
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昭和40年4月1日 町制
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平成18年3月1日 吉野ヶ里町
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吉野ヶ里町
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東脊振村
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東脊振村
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東脊振村
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東脊振村
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- 長崎県神埼郡長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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1 |
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明治11年(1878年)10月28日 |
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明治16年(1883年)5月8日 |
佐賀県に移管
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- 佐賀県神埼郡長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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1 |
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明治16年(1883年)5月9日 |
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大正15年(1926年)6月30日 |
郡役所廃止により、廃官
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- 神埼郡長を務めた主な人物
- ^ a b c d e 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』角川書店、1982年、p.237~238
- ^ 小島瓔礼 校注『風土記 (角川文庫)』角川書店、1970年、222-223頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/12268944/1/113。
- ^ a b c d e “特集 肥前國風土記にみる神埼”. 神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」. 2022年5月4日閲覧。
- ^ “櫛田宮沿革”. 櫛田宮. 2022年5月4日閲覧。櫛田宮の社伝によれば、第12代景行天皇が当地方を巡行された折、当時この地に不幸が続いて人民は苦しんでいたが、神を祭りなごめたら、その後は災厄もなくなった。神の幸をうける地というところから「神幸(かむさき)の里」と名付けられ、今は「神埼」と書いている。
- ^ 吉田村・目達原村に分かれて記載。
- ^ 丁大田村(佐賀藩領)・直鳥村(蓮池藩領)に分かれて記載。
- ^ 用作村(佐賀藩領)・古賀村(蓮池藩領)に分かれて記載。