神奈川宿(かながわしゅく、かながわじゅく)は、東海道五十三次の3番目の宿場である。武蔵国橘樹郡、今の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった。付近には神奈川湊があった。
神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。なお幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心は外国人居留地が作られたこの横浜村に移っていった。
神奈川町と青木町の二町からなり、両町の境には滝野川(現滝の川)が流れていた。江戸側の新宿村に隣接する江戸見附から順に並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町と続いて滝野川を渡り、滝之町、久保町、宮之町、元町、七間町、下台町、上台町、軽井沢といった町並みが続いていた。なお、本陣は石井本陣が西之町に、鈴木本陣が滝之町にそれぞれ置かれ、問屋場は仲之町に、一里塚は下台町にそれぞれ設置されていた。町並みは東海道沿いのみに限らず、十番町からは内陸に仲木戸横町が延び、仲之町から海辺沿いに小伝馬町、猟師町、内陸には飯田町、御殿町、二ツ谷町がそれぞれあり、枝郷として斎藤分(神奈川町)、三ツ沢(青木町)があった。
旧東海道は現在の国道15号と宮前商店街を通り、神奈川駅及び青木橋の西側、台町、上台橋を経て、そのまま上方見附を経て芝生(しぼう)村から現在の環状1号線に沿って天王町駅、保土ケ谷駅方面へ進む。
亀の甲煎餅が名物とされたが、現在は提供している店舗は存在しない。台町から海を見下ろす眺望は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の浮世絵にも紹介され名所とされた。神奈川沖の海は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』神奈川沖浪裏にも描かれた。また、宮洲(青木町の海岸、現在の栄町)の潮干狩りも名物であった。
天保4年(1833年)には、東日本では暴風雨災害以後、米価の高騰により、9月に神奈川宿で米騒動があったといわれている[1]。
明治22年(1889年)に神奈川町、青木町、芝生村が合併し神奈川町が成立、1901年(明治34年)に横浜市に編入された。
成仏寺の東にある神奈川地区センターの前には高札場が再現され、館内に江戸時代の神奈川宿のジオラマが展示されている。
神奈川湊(かながわみなと)は、武蔵国橘樹郡神奈川(現・神奈川県横浜市神奈川区)にあった湊(港)である。
神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことである。しかし、古代から東京湾内海交通の拠点として、六浦(神奈川県横浜市金沢区)・品川(東京都品川区)・富津(千葉県富津市)・木更津(同木更津市)などとともに、当地に港が存在したことは確認されている。
神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の領地となった。江戸時代には東海道が整備され、慶長6年(1601年)に神奈川へ宿場が置かれた。神奈川宿と神奈川湊は、幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。神奈川湊の周辺には、北に生麦湊、新宿湊があり、南に戸部湊、野毛湊があった。
安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。
(現在地不明)
JR京浜東北線・横浜線 東神奈川駅又は京急本線 京急東神奈川駅