あきの たいさく 秋野 太作 | |
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本名 | 津坂 匡章(つさか まさあき) |
別名義 | 津坂 まさあき |
生年月日 | 1943年2月14日(81歳) |
出生地 | 日本・東京市台東区[1] |
身長 | 170 cm |
血液型 | O型 |
職業 | 俳優、タレント、エッセイスト |
ジャンル | テレビドラマ、舞台、映画 |
活動期間 | 1967年 - |
活動内容 |
1963年:俳優座養成所入所 1966年:俳優座入団 1967年:『徳川の夫人たち』でデビュー 1968年:『男はつらいよ』 1969年:上記の劇場版 1971年:『天下御免』 1972年:『必殺仕掛人』 1975年:『江戸の旋風』、『俺たちの旅』 1977年:『気まぐれ本格派』 1980年:『熱中時代』 1986年:『ザ・ハングマンV』 1987年:『おもいっきり探偵団 覇悪怒組』 1999年:『サラリーマン金太郎』 |
配偶者 |
太地喜和子(1974年) 温碧蓮(1975年 - ) |
著名な家族 |
津坂浩史(実弟) つさかたくじ(長男) 奥本有里(長女) 津坂早紀(次女) |
事務所 | グランパパプロダクション |
公式サイト | 所属事務所公式プロフィール |
主な作品 | |
テレビドラマ 『男はつらいよ』 『天下御免』 『必殺仕掛人』 『必殺仕置人』 『助け人走る』 『暗闇仕留人』 『江戸の旋風』シリーズ 『俺たちの旅』 『熱中時代』 『ザ・ハングマンV』 『おもいっきり探偵団 覇悪怒組』 『五稜郭』 『サラリーマン金太郎』<TBS版> 映画 『男はつらいよ』シリーズ | |
備考 | |
デビューから1976年までは本名を名乗っていた。 |
秋野 太作(あきの たいさく、1943年2月14日[2] - )は、日本の俳優、タレント、エッセイスト、瞑想者である。本名および旧芸名は津坂 匡章[2](つさか まさあき)。一時は津坂まさあきの名も使用していた[2]。グランパパプロダクション所属。身長170cm、体重65kg。
東京市深川区(現・東京都江東区深川)で生まれ、生後間もなく大分県杵築市の母の実家に移り[1]、4歳のとき東京に戻り、以降は文京区で育った[1]。文京区立第六中学校卒、東京都立文京高等学校卒、日本大学法学部中退[1]。文京区立第六中学校の同級生には小沢一郎と西川太一郎がいた。
俳優座養成所第15期生[2]、俳優座座員[2]を経て現在はグランパパプロダクション所属。俳優座時代、一時太地喜和子と結婚していたが短期間で離婚し、その後、元タカラジェンヌでNHK『ステージ101』のヤング101の第一期生としてNHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』に出演した女優・歌手の温碧蓮と再婚している。息子は振付家・農業経済学者のつさかたくじ、長女は政治家の奥本有里[3]、次女は元女優・ファッションモデルの津坂早紀[2]。また、実弟・津坂 浩史(つさか ひろし)も俳優デビューしたが、引退した。
1975年から一年間放送されたテレビドラマ『俺たちの旅』(日本テレビ系)での、女性からモテモテの"グズ六"役でよく知られるが、俳優座時代から女性ファンが多く[4]、テレビドラマ『男はつらいよ』でレギュラーだった秋野に、女性ファンからの「映画でも出してくれ」との要望が多く[4]、映画『男はつらいよ』にも出演することになった[4]。
芸名を秋野太作にしたきっかけは、秋野が妻を持ち子供もできて家庭を築き、人生の転換期の中で精神的にも内向きだった頃、何事もゲンを担ぐ秋野の父親が「津坂匡章の名前のままだと、いずれ交通事故死する」と誰かに言われ、秋野曰く実際に二度死にかけた経験もあり、父親がその誰かに「三度目には死ぬ」と言われて酷く心配していたことと、人生の転期にあったことがシンクロし、改名を決めた。その1976年当時演じていた日本テレビのドラマ『俺たちの朝』での役名を芸名にしたという[5]。ちなみに、その番組が「秋の大作」という触れ込みでの新作発表であったため、それもヒントになっているという。
秋野の独特のキャラクターが話題になり、バラエティ番組にも積極的に出演している。特に、日本テレビ『踊る!さんま御殿!!』は明石家さんまを驚愕させるほどのキャラクターで人気を得ており、バラエティ番組進出のきっかけとなった。また、テレビ東京の『いい旅・夢気分』『土曜スペシャル』など旅番組にも出演、娘の早紀と共演することが多い。