立松 和平 (たてまつ わへい) | |
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ペンネーム |
立松 和平 (たてまつ わへい) |
誕生 |
横松 和夫 (よこまつ かずお) 1947年12月15日 日本・栃木県宇都宮市 |
死没 |
2010年2月8日(62歳没) 日本・東京都 |
職業 | 小説家・作家 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士 |
最終学歴 | 早稲田大学政治経済学部 |
活動期間 | 1978年 - 2010年 |
ジャンル | 小説・エッセイ |
代表作 |
『遠雷』(1980年) 『蜜月』(1982年) 『卵洗い』(1992年) 『毒 - 風聞・田中正造』(1997年) 『道元禅師』(2007年) |
主な受賞歴 |
早稲田文学新人賞(1970年) 野間文芸新人賞(1980年) 坪田譲治文学賞(1993年) 毎日出版文化賞(1997年) 泉鏡花文学賞(2007年) 親鸞賞(2008年) |
デビュー作 | 『途方にくれて』(1978年) |
配偶者 | 横松 美千絵 |
子供 |
林心平(長男) 山中桃子(長女) 山中聡(娘婿) |
公式サイト |
関連ページ http://toyou.zagg.info |
ウィキポータル 文学 |
立松 和平(たてまつ わへい、1947年12月15日 - 2010年2月8日)は、日本の小説家である。日本ペンクラブ会員。本名:横松 和夫(よこまつ かずお)。筆名は本名の「横松」のもじりで「立松」にした。
早大政経学部卒。在学中から国内外を放浪。肉体労働などを経て、郷里の市役所に勤めながら作家を志した。
都市近郊の農村を描く『遠雷』(1980年)で野間文芸新人賞受賞。ほかに『ふたつの太陽』(1986年)、『沈黙都市』(1993年)など。
栃木県宇都宮市生まれ。栃木県立宇都宮高等学校卒業後、早稲田大学政治経済学部へ進学。
1966年大学入学時は学生運動で騒然としていた。早稲田キャンパス新聞会に入会するが政治的対立のため、除名。文章表現研究会に入会し、現代文学に親しむ。また日本各地や沖縄、韓国、東南アジアなどを流浪する。また、大学にもどるとデモに参加していた。
那覇のナイトクラブでバイトした経験を処女作「途方にくれて」として執筆し、雑誌『早稲田文学』に投稿。当時、「早稲田文学」の編集長だった有馬頼義が主宰する若手作家のサロン「石の会」に参加し三浦哲郎、高井有一、後藤明生、色川武大らと知り合う。立松が「小説現代」新人賞に応募して最終選考に残った際、受賞はならなかったが有馬が強く推してくれ、編集者の大村彦次郎に連れられて有馬宅を訪ね、『早稲田文学』に投稿するよう言われたもので、立松は有馬の秘書のようなことをしていた[1]。
1970年、日本放送協会を落ちたのち、集英社の内定を得て同社の研修を受けていたが『早稲田文学』に「途方にくれて」が掲載されたため就職をやめて留年し、早稲田文学で有馬の手伝いなどをしながら小説を書いた[2]。同年、「自転車」で第1回早稲田文学新人賞を受賞する[2]。翌1971年、早稲田文学の編集室でアルバイト事務員をしていた美千絵と結婚[2]。物書き志望のような人とは付き合わないようにと親から言われていた美千絵とは駆け落ち同然で一緒になった[2]。これ以降、郷里で市役所勤めをするまで、土木作業員、運転手、魚市場の荷役、病院の看護助手など、職を転々する流浪の生活が2年間続く[2]。
この間、伝説的な新宿の喫茶店「風月堂」で中上健次と出会う。1972年には妊娠した妻を実家に帰し、3か月のインド旅行に出かける。同年、テレビ・ディレクターだった田原総一朗が、1969年に企画した山下洋輔がバリケードの中でピアノを演奏したイベントを「今も時だ」として小説化。新潮新人賞候補となり、商業誌デビュー。1973年、経済的理由から帰郷し宇都宮市役所に就職。栃木を題材にした小説を書き続ける。1979年退職し、文筆活動に専念。同年に発表した「閉じる家」「村雨」が、芥川賞候補となる。1980年、『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞。1981年にはATGにより『遠雷』が映画化される。1984年、宇都宮の家にある本を全部売り払い東京に移住。取材でレバノンを訪れる。福島泰樹に薦められて、ボクシングを始める。ボクシング体験は著書『ボクシングは人生の御飯です』にまとめている。また映画『蜜月』(1984年)では脚本を担当。1985年には、香港-北京ラリーにナビゲーターとして参加。『地上の翼 香港-北京ラリー優勝記』を執筆。1989年12月から1990年1月には、写真家小川義文がチーム監督をつとめたチームで、パリ・ダカールラリーに1号車ナビゲーターとして出場。『パリ・ダカ 砂の水平線(本橋成一写真)』を執筆。1990年大会はリタイアしたものの翌年1991年パリダカールラリーで88位完走を果たす。1986年からテレビ番組『ニュースステーション』のコーナー「こころと感動の旅」に出演し、その独特のトークで注目される。その旅の内容は『雲を友として こころと感動の旅』にまとめている。1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。1993年、作品『光の雨』で「盗作事件」を起こし社会問題となり、それ以後テレビ出演等が急減した[3]。1997年、『毒 - 風聞・田中正造』で毎日出版文化賞受賞。2002年3月、歌舞伎座上演『道元の月』の台本を手がけ第31回大谷竹次郎賞受賞。2007年、『道元禅師』で第35回泉鏡花文学賞受賞。
行動派作家として知られ、自然環境保護問題にも積極的に取り組み、徳島県で川の学校の講師を務めたこともある。小説のほか紀行文、絵本、戯曲など、純文学作家としては異例なほど著書が多い。また晩年は、仏教への関心を深めており(インドへの関心は若い頃からのもの)、知床の地域の人とともに1995年に知床に「毘沙門堂」を設立し、当時の法隆寺の高田良信管長を招いて開堂にこぎつけた。その方面のエッセイ類も多数ある。
2010年2月8日、東京都内の病院にて多臓器不全で死去。62歳没[3][4]。1月には体調を崩して入院していた。『大法輪』連載中だった『良寛』と、書き下ろしの小説『白い河 風聞・田中正造』が未完の絶筆となった。
連合赤軍を題材にして、1993年8月号から雑誌『すばる』(集英社)で連載を開始した『光の雨』について、元連合赤軍メンバーの坂口弘(獄中)から、自著の『あさま山荘1972』と酷似しており「盗作」であると抗議された。和平は「盗作」を認め、同年10月号で連載は休止となった。それまでタレントのように活動していた和平は、テレビ出演を自粛し関係者へ謝罪に回らざるを得なくなった。その後、『光の雨』は物語や構成を変えて1998年3、4、5月に雑誌『新潮』(新潮社)で連載し、新潮社より単行本が刊行された。この作品は高橋伴明監督により同名で映画化され、2001年12月に劇場公開された。
2008年6月、新潮社より刊行された長編『二荒』が『光の雨』同様、参考文献として挙げていた別の人物から「作品中に自著(福田和美、日光鱒釣紳士物語)からの引用がある」との抗議を受け絶版となり、2度目の「盗作事件」と報道された。その後、再構成や修正を経て勉誠出版より『日光』[1]と改題して出版された。
立松による取材を拒否したにもかかわらず、内部資料を無断で持ち出され、それを元にした立松のエッセイ中に実名で登場させられてプライバシー暴露の被害に遭い、ショックのあまり体調を崩したという人物の存在が指摘されている[5]。この事件に関連し、1993年から1994年にかけて『週刊金曜日』誌上において、立松と被害者側の論争が展開された[6]。
『ニュースステーション』などのテレビ番組に出演した際は、方言を交えて喋っていたが、実際には標準語を普通に話すことができた[7]。友人の高橋三千綱に対して、立松は「テレビに出るときにはわざとああいう話し方するんだ。おれは三千綱と違って何か工夫しないと仕事こねぇから」[7]と説明している。
父は農家の生まれで、満州の商社に勤めていたときに一時帰国して母と見合い結婚をした[8]。その後、徴兵され関東軍の一兵卒となった[8]。終戦後、ソ連軍に連行されたが脱走して一年後に故郷へ復員、宇都宮空襲に遭いながら生き残っていた母とともに宇都宮市郊外に家を建てて暮らした[8]。父は会社員として勤務し、母は食料品店を営み、これを繁昌させた[8]。
妻の美千絵(みちえ[2][9]、1946年3月30日生[2])は小山内薫の孫[2]。東京都生まれ[9]、実践女子学園高等学校卒[2]。高校卒業後、5年ほど会社勤めをしたが、結婚相手に巡り合えず退職[9]。その後、有馬頼義から求人(編集人)募集の電話があり早稲田文学の編集室でアルバイトを始めた[9]。「編集はできません」と断ったうえで経理などを担当したが、出版社にいたことがある妹と間違われたと思う[9]、と述べている。まもなくその編集室で立松と知り合い、出会ってわずか8か月後に結婚[9]、のち一男一女をもうけた[2]。結婚後は有馬がはじめた財団法人「東京空襲を記録する会」に勤務し[9]、立松が作家となってからは立松のマネージャー兼アシスタントをつとめた[9]。
長女の山中桃子(横松桃子、1977年 - )はイラストレーター・絵本画家で、和平の著書に多くの挿絵を描いている。俳優山中聡は桃子の夫。また長男の心平(1972年 - )は林心平の名で文筆活動を行っている。従甥に俳優の千葉雄大[10]、遠戚に藤田嗣治、児玉源太郎らがいる。
小山内建 (玄洋) | 横松和夫 (立松和平) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
禮子 | 横松心平 (林心平) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
錞 | 小山内薫 | 小山内徹 | 美千絵 | 桃子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小山内宏 | 山中聡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中川登女子 | 富子 | 山中崇志(崇史) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岡田三郎助 | 市川扇升 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
八千代 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小栗信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘆原信之 | 蘆原敏信(英了) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤田嗣章 | キク | 蘆原義信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘆原太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤田嗣治 | 初子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政 | 藤田嗣雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
のぶ子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
モト | 藤田嗣隆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
児玉源太郎 | 藤田慎二 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ツル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2022年11月、塩原温泉観光協会により大正浪漫街道(旧国道400号、下塩原バイパス開通により旧道となった区間)の回顧トンネルそばに、那須町産の芦野石にはめ込んだ御影石に長編小説「人生のいちばん美しい場所で」の一節を刻んだ文学碑が建てられた[11]。