竹中 郁(たけなか いく、1904年4月1日 - 1982年3月7日[1])は、日本の詩人。本名、育三郎。
兵庫県神戸市兵庫区出身。生家は裕福な問屋で、1歳の時紡績用品商の竹中家へ養子に出された。兵庫県立第二神戸中学校、関西学院大学文学部英文学科卒。画家の小磯良平は二中の同制作作品「彼の休息」は竹中がモデルをつとめている。
中学時代より北原白秋に傾倒し、『近代風景』『詩と音楽』などの白秋主宰の雑誌で詩人としての履歴をスタートした。1924年に北川冬彦、安西冬衛らの「亜」のグループと交流をもち、モダニズムのスタイルの影響をうける。1925年、第1詩集『黄蜂と花粉』を発表する。1924から1926年までヨーロッパに留学する。1926年に近藤東らの慫慂により『詩と詩論』に参加する。1932年刊行の詩集『象牙海岸』中の「ラグビイ」は当時流行したシネポエムのスタイルをとり、モダニズム詩の代表的成果の一つと評価されている。しかし、モダニズム的都会趣味の芯には常に洗練された抒情があり、モダニズム詩のフォルマリズム的傾向とは一線を画した。1930年には「四季」の同人になっている。
戦後は、詩作とともに雑誌『きりん』の創刊編集、多数の校歌作詞など、児童詩の分野での指導育成に尽力した。
1982年3月7日、脳内出血のため神戸中央市民病院で死去。墓所は神戸市能福寺。戒名は春光院詩仙郁道居士[2]。
兵庫県内の学校を中心に、数多くの校歌の作詞を行っている。