算額(さんがく)とは、江戸時代の日本で、額や絵馬に和算の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。
平面幾何に関する算額(特に円の中に多数の円や別図形の中に多数の球を入れるなど接点を持つもの[1])が多い。和算家のみならず、一般の愛好家も数多く奉納している。
算額は、和算において、問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学に励むことを祈念して奉納されたと言われる。やがて、人びとの集まる神社仏閣を問題の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、それを見て解答や想定される問題を再び算額にして奉納することも行われた。
このような算額奉納の習慣は世界中をみても他に類例がなく、日本独特の文化といわれる。その一部は重要文化財や民俗文化財に指定されている。明治時代になると、日本には西洋から数学が導入されることとなったが、算額奉納の風習は、この導入を容易にしたとも評価されている[誰によって?]。
1997年に行われた調査結果によると、日本全国には975面の算額が現存している[2]。これら現存する算額で最古の記年銘をもつものは栃木県佐野市の星宮神社に奉納された天和3年(1683年)のものであった[3]。延宝8年(1681年)の村瀬義益『算学淵底記』によれば、17世紀中頃には江戸の各地に算額があったことが記されており、ここでは目黒不動の算額の問題が紹介されている。京・大坂にはさらに古くから算額があったと推定される。17世紀後半には算額に書かれた問題を集めて書物にするものも現れ、出版物としての算額集の最初は寛政元年(1789年)藤田貞資『神壁算法』とされる。
算額奉納の習慣は、江戸中期に入ると全国的に盛行し、特に寛政・享和・文化・文政のころは最も隆盛し、1年に奉納数が100面を越えたこともあったといわれている。明治に入ってからも昭和初年頃まで和算の伝統として継承された。近年、算額の価値を見直す動きが各地で見られ、21世紀に至ってもなお算額の奉納を受け入れる神社もあり[4]、また算額を神社仏閣に奉納する人びとも増えている。これは直接和算の伝統を受け継いだものではないことが多いが、いずれにしても日本人の算術好きをあらわす文化事象とする主張もある。
2018年にはロザリー・ホスキングがカンタベリー大学の有志とともに京都の北野天満宮に外国人としては初の算額を奉納した[5]。北野天満宮にも算額が現存するが、日本語と英語が書かれたものは初だという[6]。
現存する算額は関東地方や東北地方が多く、最も多いのが福島県の103面、次いで岩手県93面、埼玉県91面、群馬県などとなっている。長野県木島平村の算額8面は、山間部の小村としてはきわめて濃密に分布している例である。また、愛媛県松山市の伊佐爾波神社には22面の算額が奉納されており、これは1箇所で確認されているものとしては最多である[7]。伊佐爾波神社の算額については、『道後八幡伊佐爾波神社の算額』として図録にまとめられ、同神社より発行されている。
司馬遼太郎の祖父も和算の嗜みがあり算額を奉納している[8]。司馬の祖父は姫路郊外の生まれ。和算の先生が三条大橋の湾曲度を調べて円の大きさを算出せよ、と問題を出し試合を行った。答えが合うと姫路南方の広という村のお宮に額が上がるのだという。その村には司馬の先祖が代々400年住んでいた。司馬は祖父の生まれた村を知らなかったが、あるときその村に行き天満宮を訪れた。着いたときは夜になっていた。玉ぐしが千ほどあって、暗いので祖父の玉ぐしなどすぐには見つからないだろうと思ったが、懐中電灯をパッと照らすと何とそこに祖父の名前があったという。
司馬遼太郎の祖父の名前は福田惣八(そうはち)[9]。惣八は黒船来航のショックで西洋嫌いになった。断髪令で人々がちょんまげをやめてもひとり結い続けた。一人息子の是定(しじょう)を小学校に入学させなかったのも小学校は西洋の教育を行うところだと思っていたからで、息子には寺屋(寺子屋)に通わせ和算と漢文を学ばせた。惣八が広畑(現在の姫路市広畑区)の天満宮に奉納した算額は、戦後ほどなく、天満宮を改装中に大工が処分してしまった。