あわしまうらむら 粟島浦村 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 |
中部地方、北陸地方 甲信越地方 | ||||
都道府県 | 新潟県 | ||||
郡 | 岩船郡 | ||||
市町村コード | 15586-1 | ||||
法人番号 | 3000020155861 | ||||
面積 |
9.78km2 | ||||
総人口 |
324人 [編集] (推計人口、2024年8月1日) | ||||
人口密度 | 33.1人/km2 | ||||
隣接自治体 | 村上市 | ||||
粟島浦村役場 | |||||
村長 | 脇川善行 | ||||
所在地 |
〒958-0061 新潟県岩船郡粟島浦村字日ノ見山1513-11 北緯38度28分06秒 東経139度15分16秒 / 北緯38.46831度 東経139.25439度座標: 北緯38度28分06秒 東経139度15分16秒 / 北緯38.46831度 東経139.25439度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
粟島浦村(あわしまうらむら)は、新潟県の北部、日本海にある村である。岩船郡に属する。粟島で唯一の基礎自治体でもある。
集落は、東岸の内浦と、西岸の釜谷の2つがある。
地学的には隆起の激しい島であり、島の北部には海岸段丘が発達している。また1964年(昭和39年)6月16日に発生した新潟地震の際には、震源に近かったことから島内で1mの隆起が生じた[1]。
1974年(昭和49年)3月22日、海底地すべりによる「粟島災害」が発生した[2]。内浦集落の海岸が一晩のうちに大きく侵食され、多くの住居と完成したばかりの鉄筋コンクリートの村役場と役場に隣接していた木造の施設が海に飲み込まれた。新潟地震とこの海底地すべりにおいて、死者は出ていない。
村役場や粟島汽船の港があり、村の中心的機能を持つ[3]。集落は平坦部に形成されており、旅館、民宿、ゲストハウスといった宿泊施設や土産店、商店、飲食店が多く立地する[3][4]。
斜面に形成された集落であり、狭隘で階段を有する生活道路が張り巡らされている[3]。もともとは平地が殆ど存在しなかったが、新潟地震による隆起で海岸線が後退してできた土地に港湾道路や広場が整備された[3]。こちらの集落にも民宿や食堂、売店が立地する[3][4]。両墓制が残る全国でも珍しい集落である[5]。
内浦と釜谷では冬の気候が少々違う。内浦は本土に面しており、集落の背後の山がアジア大陸からの強風を防いでくれるため風が弱く、島に隠れている部分の海は穏やかであるが、逆に釜谷は大陸からの強風を直接に受けるため、冬は漁ができない。釜谷では、高さ数メートルもある岸壁を大波が軽々と越える。
粟島は激しい波にさらされるため、特に大陸側である釜谷の海岸には日本語のみならず朝鮮語、ロシア語、中国語等が書かれた様々な外国製品も流れ着く。大型台風の襲来時には、更に大量の漂着物が集積する。
廃棄物のみならず、不審船も度々漂着している。2004年(平成16年)の春に漂着した不審船は全長5メートルほどの木造船で、船体はタールのようなものが塗られ真っ黒であった。2013年(平成25年)12月にはハングルの書かれた全長3.5メートルほどの木造船が漂着し、船内から男性の遺体が見つかっている。
冬になると、荒波に流されてタルイカ(ソデイカ)が打ち上げられる。味はそこそこであるが、珍しいため皆が探す。タルイカを拾うために海岸を徘徊する光景は粟島の冬の風物詩でもある。
粟島は過去に集落を焼き尽くすような大火に数度見舞われており、過去の資料や文献等がほとんど残っていない。このため、江戸時代以前は推測に頼るしかない。
人の居住は早く、縄文土器が出土している。古代は蝦夷が住んでいたと思われる。阿倍比羅夫の遠征や磐舟柵の設置など大和朝廷の北陸・東北地方への進出に伴い、その支配下に組み込まれていったと推測される。『万葉集』に載る和歌「波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の逢わぬもの故我に寄そる児ら」にある粟島が、現在の粟島を指すとの解釈もある[6]。
『大日本地名辞書』によると、日本各地に伝わる薬の処方を集めた『大同類聚方』に「磐船郡粟生蝦夷等之家伝方」として「粟島薬」が見え、2種類の薬について記されている。そこで原料とされている植物は現在も島に自生している。
鎌倉時代、室町時代は色部氏の領地。この時期、板碑が大量に造られた。
江戸時代には村上藩や庄内藩領、幕府領、米沢藩預と二転三転した。また北前船の寄港地として栄えた。戊辰戦争中はエドワード・スネルによる米沢藩への武器輸送の中継地だった。現在も海が荒れた際はタンカー等が内浦港の沖合いに停泊する。
粟島浦村と全国の年齢別人口分布(2005年) | 粟島浦村の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 粟島浦村
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
粟島浦村(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
2005年(平成17年)の国勢調査によれば、村の人口438人のうち内浦集落が347人、釜谷集落が91人であった[3]。後述のしおかぜ留学制度により2011年から2021年までの10年間に15歳未満人口が19人から43人に増え、増加率は全国の市区町村で1位となった[11]。
脇川の前任である本保建男は2006年に村上市との合併反対を掲げて勝利し(2002年は合併推進派が勝利)[13]、4期務めて初当選時以外は3期続けて他に立候補者がおらず、2022年の村長選は16年ぶりだった[14]。
役場の職員数に対する地域おこし協力隊の隊員数の比率が86%で、全国で最も高い[15]。
村議会は2022年時点で7人[14]。1991年には村議選において3人の得票数が同数となり、抽選が行われる珍しい事態が発生した[16]。
島全体が「瀬波笹川流れ粟島県立自然公園」の一部[17]となっている。観光客数は年間2万人ほどで推移し[18]、5月と8月にピークを迎える[19]。ゴールデンウィークの時期に連絡船より眺める粟島は、萌黄色の島の中に桜の花がちりばめられ、紺碧の海の色との対比がとても美しい島である。
後述のように一般の自動車持ち込みは許可されていないため、島を一周するには持ち込み[20]または役場で借りることのできる自転車が手段となる。貸出される自転車はママチャリのほかに電動アシスト自転車がある[20]が、シーズン中は開始時間前に並ばないと借りられなくなることもある。平地が少ないため道路は起伏が激しい。このほか、かつては観光船「シーバード」で島を一周できた[21]。
島内には温泉があるほか、秋には磯ダコ取りツアーが開催される。また、釣りも楽しめる[22]。その他、粟島浦村の名物として次のようなものがある。
粟島漁港と釜谷漁港がある。5~7月には定置網漁のシーズンとなる[25]。島内には競り・入札がなく、本土で実施されている[25]。
各家で野菜を育て、小豆、大豆も島内で自給している。小豆餡や味噌も多くは自家製である。稲作も昔は行われていたが、1964年の新潟地震による島の隆起が原因で水源が枯れた為、それ以降は行われていない。島のジャガイモは甘みがあるといわれる。秋に捕れる磯ダコを使ったイモダコが名物である。
1988年(昭和63年)には農水産物の加工施設「ふれあい加工センター」が完成した[26]。
1998年(平成10年)には全国で初めて農協と漁協が統合された[27]。営農や農産物販売の需要は少なく、統合前の農協の事業収益の75%は内浦集落の小型スーパーだったと言われている[27]。
島内には粟島浦小学校と粟島浦中学校がある。小中併設校のため校舎と校長は同じ。2013年以降しおかぜ留学制度を実施し島外からの国内留学生を受け入れており、小中合計した児童・生徒数は島出身者、島外出身者それぞれ十数名[28]。釜谷集落の生徒は2011年度よりコミュニティバスによる通学となっている[29]。
釜谷集落には廃校になった旧分校がある。
高等学校は島内に無く、本土の村上市内の高等学校へ進学する生徒が殆どである[29]。島からの通学は困難なため、村上市に村営の寄宿舎が設けられている[29]。
同村においては、路線バス、タクシー等は運行されていないが、民宿に電話で依頼すると港まで送迎してくれる。近年、補助金によりコミュニティバス(島民のみ無料で、島民以外は200円)が開通し、内浦と釜谷を往復している。粟島汽船のカーフェリーは車を運べるが、島民や仕事での来島者を除く観光客は自家用車・バイクの持ち込みはできない[33][38]。
また、災害救援用のヘリポートが島北部に設けられている。
幹線道路は、中心部の内浦地区と釜谷地区を結ぶ一般県道1路線。その他は全て村道となっている。
信号機のない島で育った子供たちが本土での信号機に迷わないようにと2007年7月13日、粟島浦村で唯一の信号機が設置された。島内には信号機が必要なほどの交通量ではないが、交通量の激しい島外で事故に遭わないようにと教育関係者の働きかけもあり設置場所が学校前となった[39]。
村道は北周りの遊歩道と南回りの遊歩道がある。南回りの遊歩道の最高部である矢ヶ鼻から見た本土は良い景色である。晴天時は佐渡島の大佐渡山地と小佐渡山地、本土の角田山と弥彦山が四つ並んだ島のように見える。また、新潟市中央区の新潟スタジアム(デンカビッグスワンスタジアム)、朱鷺メッセ、NEXT21も見ることができる。北周りの遊歩道は快晴の日に限り鳥海山が見える。
離島という地理条件上、島外との交通の基幹は航路に頼ることとなる。新潟県本土側とは、粟島汽船が運航する内浦港と岩船港(村上市)を結ぶ航路により結ばれており、カーフェリーと高速船が運航されている。
冬は大陸からの寒波にさらされ、海が荒れるため、長ければ1週間程度船が欠航し、郵便等の貨物や新聞のやり取りができなくなることもある。
なお、2018年6月29日より7月20日までの平日のみ15日間について、新潟港と粟島を結ぶ航路が社会実験として44年ぶりに就航することとなった[40]。
岩船郡(当村、朝日村、山北町、神林村、荒川町)と村上市とで合併する話があったが、村上市が離脱したため白紙になった。なお、岩船郡関川村は以前より自立の道を選択していた。その後、村上市の市長交代により元の枠組みで新協議会が発足したが、今度は当村が村長交代により協議を離脱し、自立の道を歩むと表明した。