時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 寛弘2年8月20日(1005年9月26日) |
死没 | 康平7年11月9日(1064年12月19日) |
改名 | 小若(幼名)→長家 |
別名 | 御子左大納言、三条大納言 |
墓所 | 京都府京都市東山区今熊野観音寺宝塔 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原道長、母:高松殿 |
兄弟 | 彰子、頼通、頼宗、妍子、顕信、能信、教通、寛子、威子、尊子、長家、嬉子、長信 |
妻 |
藤原行成の娘 藤原斉信の娘 藤原正光の娘 源懿子(源高雅の娘) |
子 | 道家、忠家、祐家、藤原信長室、證明、武藤長頼 |
特記 事項 | 御子左流の祖 |
藤原 長家(ふじわら の ながいえ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の六男。官位は正二位・権大納言。大宮または三条を号す。御子左家の祖。母は源明子(高松殿)であるが、後に道長の嫡妻源倫子の養子となった。
幼名は小若。寛仁元年(1017年)4月に元服、同時に従五位上に叙せられて昇殿を許される。同年侍従次いで右近衛少将に任ぜられる。寛仁2年(1018年)従四位上・右近衛中将、寛仁3年(1019年)正四位下と順調に昇進し、治安2年(1022年)従三位に叙せられ公卿に列す。
治安3年(1023年)参議を経ることなく正三位・権中納言、治安4年(1024年)従二位次いで正二位と、公卿昇任後も順調に昇進し、万寿5年(1028年)に24歳で権大納言に至る。その後は、兄の頼通・教通・頼宗・能信が長く健在だったこともあり、権大納言が極官となった。康平3年(1060年)に甥の藤原師実が19歳で内大臣に任ぜられて官職を超えられた際には、長家は檳榔車を焼いたという[1]。
康平7年(1064年)10月25日に病のために出家し、同年11月9日兄達に先んじて薨去。享年60。
『千載和歌集』の編者として知られる藤原俊成の曽祖父に当たり、長家自身も『後拾遺和歌集』(4首)以降の勅撰和歌集に計44首の作品が入首するなど[2]、歌壇の中心的人物の一人であった。家集があったと言われるが、現存しない。
『公卿補任』による。