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この項目では、プロレスラー、政治家について説明しています。
- プロ野球選手の西村修については「伊沢修」をご覧ください。
- アマチュア囲碁棋士については「西村修 (囲碁)」をご覧ください。
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西村 修(にしむら おさむ、1971年9月23日 - )は、日本の政治家、プロレスラー。血液型A型。東京都文京区出身、文京区議会議員。
グラウンドでの極技(サブミッション・ホールド)を中心としたプロレスを得意として、そのようなスタイルは、しばしば「西村ワールド」と形容される。
錦城学園高校在学中に新日本プロレス学校に入門。卒業後の1990年4月に新日本プロレス入門。
- 4月21日、沖縄県糸満市西崎総合体育館の飯塚孝之戦でデビュー。7分41秒、逆エビ固めに敗れた。
- 7月17日、留萌市スポーツセンター大会でデビュー2戦目の小島聡と対戦。6分、逆エビ固めで勝利。初勝利を挙げた。
- 11月ごろに新日本プロレスから帰国命令が出たが拒否。その結果、新日本プロレスからの送金がストップされた。
- 1月にニューヨークに移動し、ECWやフィラデルフィア、デトロイトなどのインディ団体に出場。
- その後、オランダのクリス・ドールマン道場に1か月特訓。そしてイギリス・ウィガンに行き、アスパル・レスリング・ジム(日本での通称はビリー・ライレー・ジム)でロイ・ウッドにコーチを受ける。
- ギリシアに移動して藤波辰爾に途中経過を報告したところ、ウィガンのジムに藤波も興味を示したため、またウィガンに戻って2人で練習をした。そこで藤波から「無我」の構想を聞かされる。
- 10月10日に帰国。
- 10月29日、大阪ACTホールでの藤波の自主興行「無我」旗揚げ戦に出場。シェーン・リスビーと対戦し、19分5秒、ボディへのヒザ蹴り3連発からのノーザンライトスープレックスで勝利した。
- 11月13日、両国国技館大会でリック・フレアーとシングルで対戦。老獪なテクニックに手も足も出ず、10分17秒、足4の字固めに完敗。
- 12月13日、無我の博多スターレーン大会でダレン・マロニスと対戦。15分19秒、ワキ固めで勝利。
- 10月5日、無我の大宮スケートセンター大会での「キャッチ・ザ・ランカシャーレスリング」トーナメントに出場し、1回戦でジョン・パトリックと対戦。9分41秒、ノーザンライト・スープレックスで勝利。同日の準決勝でダレン・フレッチャーと対戦。9分25秒、ノーザンライト・スープレックスからのグラウンド・コブラツイストで勝利。
- 10月7日、無我のEBiS303大会での決勝戦でシェーン・リグビーと対戦。19分45秒、ノーザンライト・スープレックスで勝利。同日のメインでは優勝者の特権として藤波と対戦。14分43秒、三角絞めに敗れた。
- 5月、海外再修行へ出発し、カナダ・カルガリーの大剛鉄之助のもとで1か月筋力トレーニングした後、欧州CWAマットに参戦。
- 9月23日、なみはやドーム大会で藤波と組んでIWGPタッグ王者の天山、小島組に挑戦。26分4秒、西村のジャパニーズ・ レッグロール・クラッチホールドで小島にフォール勝ちし、IWGPタッグ王座を獲得。
- 10月7日、無我の後楽園ホール大会でドリー・ファンク・ジュニアと対戦し、22分30秒、逆さ押さえ込みで敗戦した。
- 10月19日、別府ビーコンプラザ大会で武藤、ライガー組を相手にタッグ王座の防衛戦。24分12秒、藤波の足4の字固めで武藤に勝利して防衛に成功。
- 10月28日、福岡国際センター大会で武藤、太陽ケア組を相手にタッグ王座の防衛戦。23分47秒、武藤のシャイニングウィザードに西村がフォール負けしタッグ王座から転落。
- 1月24日に新日本プロレスを退団[2]。フリーバード(フリーランス)として「地位や名誉などいらない。本当のプロレスをしたい」とフリーとして世界中にある数多の団体のマットに上がることを宣言した。
- 8月2日、後楽園ホールで西村と田中秀和による自主興行『新無我伝説 エピローグ〜BLACK CAT MEMORIAL』を行い、メインイベントでヒロ斎藤と対戦。クラシカルなムーブでファンを魅了。24分10秒、ジャーマンスープレックスホールドに敗れた。これを契機に、藤波辰爾ら元新日本プロレスのフリー選手や田中秀和とともに新団体、進化し続ける現代のプロレスにアンチテーゼを投げかけた原点回帰論をテーマにした「無我ワールド・プロレスリング」を設立。後楽園ホールでのプレ旗揚げ興行では、
- 9月15日、アクロス福岡大会のメインで吉江豊と対戦。23分48秒、横入り式エビ固めでフォール勝ち。
- 9月25日、無我の旗揚げシリーズ最終戦の後楽園ホール大会で藤波と3本勝負で対戦。ラリアットやチョップ合戦のないクラシカルなムーブで観客を魅了。1本目は20秒で西村が首固めで勝利。2本目は13分12秒で藤波が足4の字固めで勝利。3本目は10分28秒に、藤波の足4の字固めを反転させた西村が裏4の字固めで勝利した。
- 12月7日、EBiSS303大会での無我プレミアムトーナメントに参戦し、1回戦で竹村豪氏と対戦。11分27秒、逆さ押さえ込みでフォール勝ち。準決勝で後藤達俊と対戦。10分6秒、逆さ押さえ込みでフォール勝ち。決勝で長井と対戦。21分31秒、ランニングニーアタックに敗れた。
- 5月20日、岡山県卸センター・オレンジホール大会で、藤波の国内3500試合出場記念試合で対戦。西村のアピールで3本勝負になったこの試合。1本目を12分13秒、裏4の字固めで勝利。2本目は5分42秒、首固めにフォール負け。3本目は3分18秒、卍固めに敗れた。
- 9月9日、ノアの日本武道館大会で藤波と組んで三沢、潮崎組と対戦。19分40秒、西村が足4の字固めで潮崎に勝利。
- 9月13日、ハッスルに「ムガール帝国の賢人ニシム・ラマ」として登場。
- 9月22日にはハッスルの大阪府立体育会館大会でHG、TAJIRIと組んで、川田、スコット・ノートン、アン・ジョー司令長官組と対戦。合掌、お祈り、座禅をくり出し、独特のムーブで勝利に貢献した。
- 9月23日、大阪府立体育会館・第2競技場大会のメインでTAJIRIを相手に3本勝負でUS王座の防衛戦。1本目は13分8秒、逆さ押さえ込みを切り返されてのエビ固めにフォール負け。2本目は11分31秒、毒霧をくらって反則勝ち。3本目は2分9秒、足4の字固めで勝利した。
- 10月18日、後楽園ホール大会で高岩竜一と対戦。20分13秒、足4の字固めで勝利。試合後、コスチューム姿のままで自車のリンカーンに乗り、全日本プロレスの代々木第2体育館大会での武藤の試合後に乱入。ブードゥーマーダーズを蹴散らして武藤と握手した。
- 10月19日、征矢を連れて無我を退団。無我ワールド側へは何も伝えず「言わば無我からの亡命」と発表し、無我ワールド側も西村=無我という概念を打ち崩せなかったと発表した[3]。全日本プロレスに征矢と共に入団した。
- 11月に世界最強タッグ決定リーグ戦に渕正信と組んで出場。2勝2敗3引き分けと健闘した。
- 4月、チャンピオン・カーニバルに参戦。
- 4月5日の初戦で佐々木健介と対戦。足4の字などで健介の右足を攻めて、30分、時間切れ引き分け。
- 4月6日の第2戦でジョー・ドーリングと対戦。じっくりとした試合運びを見せ、またもや時間切れ引き分けかと思われたが、25分52秒、カナディアンバックブリーカーにギブアップ負け。
- 4月8日、諏訪魔を相手に第3戦。優勢に試合を進めたが、15分13秒、バックドロップに敗れた。試合後の諏訪魔は「もう1回やりたい。勉強になりました」と西村を称えた。
- 4月9日、鈴木みのるを相手に最終戦。3分56秒、一瞬の隙を突き、見たこともない入り方で、逆さ押さえ込みをガッチリと決めて勝利。3カウントが入ってからも数秒間、みのるが動けない状態だった。自身はリーグ戦に敗退した。
- 5月5日、新韓国プロレスの奨忠体育館大会でカート・アングル、力抜山と3WAYマッチで対戦。試合途中で力抜山のボディスラムでアングルが首を負傷。キーロックをアンクルロックで返されてダメージを負ったが、他の2人がリング外で乱闘したためリングアウト勝利。NKPWA世界ヘビー級王座を獲得した。
- 6月28日、大阪府立体育会館大会で三冠王者の諏訪魔に挑戦。36分57秒、ラストライドに敗れた。
- 7月27日に前哨戦で征矢学と組んでみのる、ケア組と対戦し、18分14秒にケアのフロント・ネックロックに征矢がTKO負け。試合後にみのるが「カール・ゴッチのまねばかりしやがって。てめえなんか弟子でもなんでもねえ、ただの飲み友達じゃねえか! 2度とその名前だすんじゃねえ!」と挑発すると、「カール! アイラブユー! サンキュー!」と西村が返答。
- 8月3日、石川県産業展示館大会で諏訪魔と組んで世界タッグ王者のみのる、ケア組に挑戦。28分16秒、ケアのフロント・ネックロックに西村がレフェリーストップ負け。
- 3月14日、全日本プロレス両国国技館大会で征矢学と組んで長州、高岩組と対戦。10分13秒、長州のラリアットに征矢がフォール負け。試合後に「長州さんよ、何十回でも何百回でもこの全日本のリングで勝負してやる。このやろう。いつでも帰ってこい、このやろう!」とマイクで挑発した。
- 3月21日、韓国での3WAY戦に敗れてNKPWA王座から転落。
- 4月からチャンピオンカーニバルに参戦。4月11日には三冠王者の高山に逆さ押さえ込みで勝利するなど健闘したが、2勝2敗1分けでリーグ戦敗退。
- 月10日、全日本プロレス「武藤祭」にて木戸修、松田納とのユニット「オサム軍団」として参戦。
- 8月22日、札幌テイセンホール大会で征矢学と組んで鈴木みのる、論外組のアジアタッグ王座に挑戦。29分37秒、みのるのゴッチ式パイルドライバーからの論外のラ・マヒストラルに征矢がフォール負け。
- 8月30日、両国国技館大会で征矢と組んで長州、越中組と対戦。試合中、征矢にラリアットを誤爆され、5分53秒、長州のリキラリアットに征矢が敗れた。この試合後に征矢と仲間割れ。
- 11月20日、全日本プロレス台湾遠征での台北・国立台湾大学総合体育館大会で「台湾カップ〜ワンデートーナメント」に参戦。1回戦で近藤修司と対戦し、6分16秒、逆さ押さえ込みで勝利。準決勝では河野真幸と対戦し、2分34秒、逆さ押さえ込みで勝利。決勝では諏訪魔と対戦し、24分23秒、ラストライドに敗れた。
- 11月から真田と組んで最強タッグ決定リーグ戦に参戦。11月28日から真田がインフルエンザのためシリーズを欠場し、リーグ戦敗退。
- 2月、後述する政治家への転身のため全日本プロレスを退団。2011年8月13日、フリーランスとして全日本プロレスに上がりレスラー復帰。今後は議会とのスケジュールを調整しながら団体問わずスポット参戦していくことを発表した[4]。
- 3月7日、後楽園ホール大会で小島と組んでアジアタッグ王者の曙、浜組に挑戦。20分8秒、浜のリョウタハマーからの曙のボディプレスに西村がフォール負け。
- 3月21日、両国国技館大会での試合後にマイクを持ち、休業を宣言。3月22日の記者会見で、夏の参議院議員選挙への出馬を表明。国民新党から比例代表候補として出馬した。
- 7月11日、選挙の結果、落選。
- 7月25日の後楽園ホール大会で復帰。
- 8月15日、後楽園ホール大会での征矢の凱旋試合で対戦し、12分59秒、ブレーンバスターに敗れた。
- 11月、世界最強タッグ決定リーグ戦にジョー・マレンコと組んで参戦。2勝5敗1引き分けでリーグ戦に敗退した。
- 2月6日、後楽園ホール大会を最後に全日本プロレスを退団し、文京区の区議会議員選挙に向けて活動開始。
- 4月、文京区議選に出馬(定数34)。6位で当選した。
- 8月13日、後楽園ホール大会で復帰戦。渕と組んで中之上、曹駿組と対戦し、10分53秒、西村が逆さ押さえ込みで中之上に勝利した。
- 10月3日、新日本プロレスの後楽園ホール大会での天山のデビュー20周年記念試合に出場。金本、大谷と組んで天山、蝶野、ヒロ斎藤組と対戦。22分53秒、天山のムーンサルトプレスに西村が敗れた。
- 9月25日から、石川晋也と組んで大日本プロレスの大日本最侠タッグリーグに参戦。リーグ戦を全勝で突破。
- 11月24日、後楽園ホール大会で岡林、忍組を相手にAブロック決勝戦。15分29秒、岡林のアルゼンチンバックブリーカーに石川が敗れた。
- 12月31日、後楽園ホールでの年越しプロレスで福田洋と対戦。9分15秒、スピニング・トーホールドで勝利。
- 4月25日、WNCの後楽園ホール大会のメインでAKIRAのWNC王座に挑戦。20分28秒、首固めでフォール勝ちし、王座を獲得した。
- 8月7日、WNCのさざんぴあ博多大会でレザーフェイスと対戦。5分20秒、グラウンドコブラでフォール勝ち。
- 8月8日、熊本市流通情報会館大会のメインでTAJIRIを相手に防衛戦。21分7秒、クルスフィックスにフォール負け。WNC王座から転落した。
- 4月13日から始まった全日本プロレスのチャンピオンカーニバルに参戦。
- 4月14日、仙台サンフェスタ大会で諏訪魔と対戦。21分18秒、万力スリーパーにレフェリーストップ負け。
- 4月19日、秋田テルサ大会で曙と対戦。8分18秒、ランニングボディプレスに敗れた。
- 4月20日、花巻なはんプラザ大会でケンドー・カシンと対戦。5分21秒、回転エビ固めを押しつぶされてのエビ固めにフォール負け。
- 4月26日、名古屋国際会議場大会で大森隆男と対戦。12分8秒、アックスボンバーに敗れた。
- 4月27日、大阪府立体育会館大会で宮原健斗と対戦。8分47秒、場外で立ち上がることができずにレフェリーストップ負け。リーグ戦は5戦全敗に終わった。
- 11月23日から始まった全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にKENZOと組んで参戦。リーグ戦は3勝3敗に終わった。
- 12月3日から始まった全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に吉江と組んで参戦。
- 12月6日、全日本プロレスの青森産業会館大会で佐藤光留と対戦。6分7秒、首固めでフォール勝ち。タッグリーグ戦は2勝3敗に終わった。
- 5月13日、フロリダのドリー・ファンク・ジュニアの「ファンキング・コンサバトリー」でダルトン・デリックのTV王座に挑戦。ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ・ホールドでフォール勝ち。!BANG!TV王座を獲得。
- 5月21日、全日本プロレスの後楽園ホール大会で中島、吉江、丸山、岩本、岡田、トランザム★ヒロシ、青柳優馬を相手にバトルロワイアルで!BANG!TV王座の防衛戦。4分7秒、最後に残った青柳に回転足折り固めでフォール勝ち。
- 6月11日、全日本プロレスの後楽園ホール大会で不動力也を相手に防衛戦。5分40秒、グラウンドコブラツイストでフォール勝ち。
- 8月27日、全日本プロレスの両国国技館大会でバトルロイヤルで防衛戦。8分24秒、横入り式エビ固めで最後に残ったグレート小鹿にフォール勝ちして防衛に成功。
- 10月9日、後楽園ホール大会でダニー・ジョーンズを相手に防衛戦。3R34秒、後方回転エビ固めでフォール勝ち。
- 10月10日、DSWの新宿FACE大会でユン・ガンチョルのNKPWA王座に挑戦。1本目は6分27秒、変型十字架固めにフォール負け。2本目は2分25秒、後方回転エビ固めでフォール勝ち。3本目は胴絞めスリーパーで勝利し、王座を獲得した。
- 11月19日、真駒内セキスイハイム・アイスアリーナ大会で丸山敦を相手に二冠王座の防衛戦。9分24秒、裏4の字固めで勝利。
- 5月12日、全日本プロレスの沖縄・ナムラホール大会で佐藤恵一と対戦。8分14秒、首固めでフォール勝ち。9月27日、新宿FACEでのTCWの旗揚げ戦でユン・ガンチョルを相手にNKPWA王座の防衛戦。22分29秒、リングアウト負けして王座転落。
9月27日、TCW旗揚げ戦で行われたNKPWAヘビー級選手権試合で、ユン・ガンチョルにリングアウト負け[5]。以降は政治活動を優先としながら、全日本プロレス、ノア、バモスターを主戦場としている。
- 11月28日、東京愚連隊の新宿FACE大会でドリー・ファンク・ジュニアと10分間のエキシビションマッチ。
- 9月19日、TCWの新宿FACE大会でユン・ガンチョルのNKPWAヘビー級王座に挑戦。14分28秒、逆さ押さえこみでフォール勝ちし、王座を獲得した。
- 12月28日、DDT・伐折羅の後楽園ホール大会でトランザム★ヒロシ、バラモンケイと3WAYマッチ。7分56秒、グラウンド・コブラツイストでフォール勝ち。
- 2024年に入ると体調不良が続き、4月になってPET診断、内視鏡検査、生検によってガンと確定。食道ガンから左側上半身全体に転移しており、ステージ4と診断された[6]。
- 一般的なプロレスラーのようにリング上でマイクパフォーマンスを披露する際、相手を罵倒したり、大声でがなりたてるような事はほとんど無く、独特の哲学に基づいた持論を展開し、時には古風めいた喋り方もする。
- アピール合戦になっても、1人だけ突然試合や今後の展開と全く関係無い話題を持ち出して大真面目に語り出す為、場内から爆笑が起こる事も珍しくない。またマイクを握り出すといつまで経っても話が終わらない為、強制的に打ち切られた事も何度かある。
自分は95年10月に第1回の遠征から帰ってきまして、無我にとことんこだわってきました。ズバリ、自分にとって無我とは・・・人生です。ひとつ大きなことをいわせてもらいますと、いまの日本の社会、腐ってます。お金だとか、物欲だとか、永久的に満足のいかないものをみんなが追求しすぎて、本当のしあわせ、愛、心、感動というものが、ちょっとどっかへいってるような気がしてなりません。ボクは、このことを無我を通して、日本のプロレス界だけじゃなくファン、またはファンを通して日本の社会に対して主張、または挑戦をしたいです。この感動というのは、ここで体験した者でなければわかりません。今後ともみなさん、我われといっしょに、この感動を一生懸命分かちあって、体験していただきたいと思います。
(1998年3月3日、無我のEBiS303大会。全試合終了後のリング上での挨拶。週刊プロレスNo.844号より)
彼らが王者であること自体、宇宙の秩序に反している。TEAM 2000は、NWoからの流れを引き継いでいるんでしょうが彼らが新世界秩序を作るなんて、勘違いしちゃいけません。彼らが世界の秩序を狂わせてるんです。私がそれを元に戻します。
(天山&小島のIWGPタッグ王座に挑戦(2001年2月4日)が決まってのコメント)
無我を文明社会に示すために、G1頂点を狙います。今日の向こうには日本のプロレスファンがいて、その向こうには日本国民があり、さらにその先には世界、宇宙があります。私のメッセージが世界に届くような信念を持ち、毎日の勝負に全てをかけています。G1は大事にしたいし、絶対負けることはできません。
(2001年7月12日。試合後のコメント)
大阪府立体育会館に、ガンジス川を見た気分です。こんな苦しい闘いはないですよ。G1っていうのは自分自身が何のために人間をやっているのかを証明するいい機会でして。ただ、これ以上苦しい闘いはないです。あのグランド・コブラは、精神世界の奥底では、負けちゃいけないという部分が具体的な形に出ただけです。狙ってできるプロレス技は、ありません。何をしにインドまで行ったか。それも僕にとってはプロレスなんで。
(2001年8月5日。G1公式戦の小島聡戦に勝利してのコメント)
何のためにやってるか、極論として言えば、宇宙の平和。天山&小島は、今の時代を反映したチーム。あの二人に挑戦するという意識よりも、時代に挑戦するという意識が強いです。負け惜しみじゃありませんけど、ボクは地位、名誉、金、王座にこだわってプロレスをやってるわけじゃありません。プロレス界で、こんなこと考えてる人いないでしょ。アンポンタンばっかりですからね。これはもう、新日本だとか、プロレス界だとか、そういうものを超越してます。9月23日は、宇宙さえも視野に入れてます。今の陽性化したプロレス界、世の中に対して、宇宙の秩序の軌道修正、中庸化を目的としているわけです。“無我”は中庸の位置にいなきゃいけないんですけど、陽性化してしまった今のプロレス界、世の中に対しては、あえて陰性の位置にいなきゃ、中庸化ははかれないんです。
(2001年9月23日のIWGPタッグ挑戦と10月7日の無我興行に向けてのコメント)
(2003年2月16日、両国国技館大会でのカレーマン戦後のバックステージ)
永田戦に向けてインドで真剣にトレーニングしてきたので、なんでカレーとやるのか不満でした。これからピュアな連中が新日本に集まった中で、地球の中、宇宙の中のメーンを突っ走るだけです。IWGP、G1、タッグを狙うだけでなく、毎月外国で試合をやっていますが、フロリダ以外に地域を広げて試合をして、私のヨガで世界に近づきたいと思います。
(2003年11月11日発売の東スポより)
- 一方、藤波社長のライバルである、WJの長州選手は生涯現役宣言を出したが?
- 西村「表が大きい人は裏も大きい。権力にものを言わせるものは、必ず権力でものを言わされる時がある。シーソーゲームのようなものです。あの人には個人的な恨みもありますけど感謝もある。あの人の強烈なパワーがあったからこそ、アメリカの大ファストフードにおける1%のオーガニック文化論の反論があった。私と長州力の関係はそんなもんですよ。無我をつくったのは長州力の力があったからです。
- 現在、苦境に立たされている長州選手へのメッセージなのか?
- 西村「小学校の卒業アルバムで「新日本に入って長州力を倒す」と書いたんです。98年に引退されてこれはもう実現不可能かなと思ってたんですよ。新日を辞めた時に勝ったと思った時もあった。私が倒したわけではないけど、向こうからしっぽを巻いて逃げていきましたから。ただ、無我はあの男がつくったようなもの。それをもう一度見せつけたいと思います。」
- 長州選手と戦うのか?
- 西村「今だからこそ戦ってみたい。90年代のあの大共産帝国主義は本当に・・・。キレイごとは言わない。結局は恨みを晴らさないといけない。」
(2003年10月13日東京ドーム大会での安田忠夫戦の試合前のマイクアピール)
「今の時代に必要なのは正義。世の中のため、日本のため、世界のため、宇宙のため、無我に入って人間をやり直しなさい。人間やめますか、それともギャンブルやめますか」
ようやく夏が終わった気がする。 G1では結果を残せなかったが、04年の夏が今区切りがついた。新たな無我の誕生を実感している。一つの枠にこだわらず、善も悪もある。それがプロレス。復帰してもう6年少々。今をいかに生きるか。今日を生きることが明日になる。イエスタディはヒストリー。トゥモローはミステリー。今日はギフト。命がある限り、私は今日を精一杯生きる。
(2004年9月3日。川田利明との三冠戦後のコメント)
(2006年1月25日。新日本プロレスでの退団宣言)
1月25日。1時間20分の対談の末、退社いたします。フリー宣言。16年やってまいりましたけど、不満とかいうことよりも生きてるかぎりはいろんな勉強をしたいと思ってます。 自分自身を磨くためにも、1つの海にこだわることなく外洋に出て大きく泳ぐ魚になりたい。世界に羽ばたく鳥になりたい。念願のフリーバード。ようやく実現しましてスッキリしております。いろんなところで試合をしたい。プロレスを追及したい。16年間お世話になりましたけど、大企業ならではの保障(もあった)。私は昨日インドから帰ってきまして、考え方がインド人になってしまっている。名誉、地位、お金、なにもいらない。ほしいのは本当のプロレスだけ。今後の予定も決まっていることはなにもないですけど、フリーバードになった「無我」の行動に注目してください。日本のみならずフリー宣言ですから。いろんなところで羽ばたきたい。
(2007年9月13日。ハッスルの後楽園ホール大会にムガール帝国の賢人ニシム・ラマとして登場した時のセリフ)
「ガンジスの蛙、インド洋を知らず。日出ずる国のプロレス界に災いが起きるとの知らせがあり、佐々木健介……いや、馳参上した。万物の均衡を乱す不届きなモンスター軍を倒すため、このニシム・ラマが喜んで力を貸しましょう。一言だけ言わせてください。長州力だけは絶対に許しません!」
(2008年3月24日、チャンピオンカーニバル前の記者会見)
ニュースを見ておりますとさまざまな事件、事故がございます。イージス艦の衝突事故、そして円高ドル安、ガソリンの高騰。わたくしは本日、16時25分発のユナイテッド航空におきましてワシントンDC経由でフロリダのほうに参ります。さまざまな事件、事故、社会的な問題ございますけど、これは宇宙の秩序と申しますか、全て地球上は陰と陽で交わっているという、私はこの陰陽説をもとに戦法に戦法を重ね、勝ちに結びつくような研究をあと2週間で練りに練って帰ってきたいと思っております。ズバリ勝算はこの戦法にあるかと思います。
2010年3月21日、全日本プロレスでの試合後に挨拶を行いプロレスを休業することを発表[7][8]。翌22日、全日本プロレス事務所で会見し、同年夏の参議院議員選挙への出馬を表明した。3月24日には、国民新党公認候補(新党日本推薦)として比例区より出馬することが発表された[9]。同年7月、第22回参議院議員通常選挙で国民新党の比例区から「食の正食化」をスローガンに立候補したが34,561票で落選。
2011年1月24日、同年4月24日に統一地方選挙の一環として実施された東京都文京区議会議員選挙に、国民新党公認候補として立候補を表明[10]。これに伴い、同年2月6日に全日本プロレスとの所属選手契約を解除し、政治活動に集中することを発表した[11]。結果、2,226票を獲得し6位(定数34)で初当選を果たした。
2012年5月、国民新党所属であったが党内分裂を機に離党し、無所属となった。
2015年4月26日投開票の文京区議会議員選挙にて再選(2,377票・第7位)。
2019年4月21日投開票の文京区議会議員選挙にて3選(2,628票・第8位)。
2023年4月23日投開票の文京区議会議員選挙にて4選(2,753票・第10位)[12]。
- 1993年、フロリダ州タンパへ初の海外武者修行に出立し、ヒロ・マツダに弟子入り。
- 1993年の海外遠征を機にフロリダを拠点とする生活を開始。マツダ、ドリー・ファンク・ジュニア、ジャック・ブリスコ、カール・ゴッチからそれぞれ日本人としては最後の弟子として教えを受けている。
- マツダ、ゴッチ、大剛鉄之助の影響を受けて現代のレスラーの主流となるウエートトレーニングを否定し、器具を使わない昔ながらのトレーニング方法でコンディションを整えるようになった。
- 1997年には、オットー・ワンツ代表のCWAキャッチトーナメントに日本代表選手として参加。トニー・セント・クレアーに指導を受ける。
- 食の基本は、玄米菜食。
- アメリカ生活16年により、リンカーンやキャデラックをはじめアメリカ車を愛すが、区議会当選を機に小型国産車に乗換え。
- 兄が当時ヴィクトリア勤務もあり、ブーム前の1985年より始めたスノーボード。当時より山形蔵王スキー場をホームゲレンデとする。
- 祖母の長男・細田彦一は、地元で5期務めた自民党所属の元文京区議会議員であり、政治の血を受け継ぐ家系でもある。
- リングコスチュームは背中に大きく「無我」と書かれたガウンをまとい、黒のタイツとリングシューズのみを身につけるストロングスタイルで闘う。まれにリングシューズも脱いで素足で試合をすることもある。
- 2024年4月、ステージ4の食道癌で、10日から入院治療に入ることを公表[13]。
- 新日本プロレス
- WNC
- 新韓国プロレス
- その他
- GWFライトヘビー級王座
- CWAシュートファイティング王座
- フロリダ地区認定USヘビー級王座
- !BANG!TV世界ヘビー級王座
元来の体の柔らかさを利用した関節技や、ブリッジを使った技が多い。またゴッチ・猪木・藤波を源流としたストロングスタイル・レスリングを中心に、アメリカ時代に世話になったヒロ・マツダ、ドリー・ファンク・ジュニアの技を引き継いで使っている。
- ミサイルキック
- 新人の頃から大事に使っている西村の主武器。蹴る瞬間、屈伸した両足を思いっきり伸ばすのが西村流。
- ムーンサルトプレス
- 海外武者修行前後にフィニッシュとして使用しており、武藤敬司からの伝授も受けたが、帰国後はほとんど使用せず。同世代である天山広吉が使用するため、差別化を図ったのが一因である。
- 各種スープレックス
- 西村のレパートリーはジャーマン・スープレックス・ホールド、ノーザンライト・スープレックスなど、柔らかいブリッジを生かしフォールに持っていくものを多用する。
- スピニング・トーホールド
- アメリカに在住していた際、ドリー・ファンク・ジュニアに直接指導を受けたもの。ここから足4の字固めに移行する場合もある。
- コブラツイスト
- 体が柔らかいことを利用し、軟体動物のようにからみつく。そのパーフェクトなフォームをもって猪木以後No.1の使い手。ロープワークの隙をついてグラウンド・コブラツイストに移行しフォールを狙う場合もある。
- エルボースマッシュ
- 以前より使っていたが、アメリカに在住していた際、ドリー・ファンク・ジュニアに直接指導を受けたことで切れ味が増した。
- 卍固め
- 師匠・アントニオ猪木から譲り受けたもの。こちらもコブラツイスト同様にフォームが綺麗なことで有名。
- ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ・ホールド(回転足折り固め)
- ロープワークから相手の後方に回り、一気にブリッジして丸め込む。師・藤波の得意技でもある。
- リバース・インディアン・デスロック
- ここからブリッジを活かして鎌固めに移行する。
- 首極め膝十字固め
- 若手時代に使用していた技。
- 逆さ押さえ込み
- ボー・アンド・アロー(弓矢固め)
- ヘッドシザーズを倒立で外す
- 倒立は観客を魅せる西村の代表的な技であるが、対戦相手も対抗して使ってくることがある。
- FLYING HIGHT AGAIN
- 新人時代のテーマ曲。
- ヴァイオレンス・ウィンド 〜超翔〜
- 1995年の凱旋帰国から使用したテーマ曲。
- HEAVEN KNOWS
- 1998年のIWGP戦から使用したテーマ曲。
- 無我GOVERN
- 『給食で死ぬ!!―いじめ・非行・暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった長野・真田町の奇跡!!』(コスモトゥーワン、2012 大塚貢、鈴木昭平と共著)
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選手 |
シアタープロレス東京 | |
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王子きつね空手軍 | |
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YOKOHAMA花鳥風月 | |
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選手 |
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活動ユニット・タッグ |
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スタッフ |
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役員ほか | |
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