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艦歴 | |
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発注 | 1885年度計画 |
起工 | 1886年7月20日 |
進水 | 1888年8月7日 |
竣工 | 1890年8月20日 |
除籍 | 1911年4月1日 |
その後 | 1912年売却 1953年解体 |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:622t |
全長 | 垂線間長:51.00m |
全幅 | 8.20m |
吃水 | 2.90m(公試状態) |
機関 | 2軸2段膨脹式レシプロエンジン2基、丸罐2 963馬力 |
燃料 | 石炭74.4t |
最大速 | 10.0kt |
兵員 | 111名 |
兵装 | 12cm単装砲4基 4.7cm単装砲4基 30mm5連装砲2基 |
赤城(あかぎ)は、大日本帝国海軍の砲艦。摩耶型の4番艦である。艦名の由来は赤城山。
小野浜造船所で1890年(明治23年)8月20日に竣工、8月23日に第一種と定められる。同型の3艦と異なり鋼製の船体構造であった。
日清戦争では黄海海戦、大連・旅順・威海衛攻略作戦等に参加。黄海海戦で当時の軍令部長樺山資紀の座乗する輸送船「西京丸」を守り抜いたことで有名である。このときに清の艦隊の集中砲火をうけ、艦長の坂元八郎太は戦死、航海長の佐藤鉄太郎も負傷、「赤城」も大損害を受けている。
1898年3月21日に二等砲艦に類別。その後北清事変、日露戦争に参加。日露戦争では、旅順攻略作戦、樺太作戦等に参加。1904年5月18日、旅順沖で砲艦「大島」と衝突事故を起こし、「大島」を沈没させてしまっている。
1911年の除籍後、翌年3月頃に川崎汽船に売却され商船「赤城丸」となった。このときにかなり改造され、砲艦時代の面影はほとんど無くなった。しかし、船首に装備された衝角だけはそのままだったという。1921年頃に転売され尼崎汽船の所有船になり、1945年台風で沈没。その後浮揚されたが、1946年1月備讃瀬戸で触雷によりまたも沈没。再度浮揚され使用されるものの、1953年老朽化の為大阪で解体された。艦齢は実に63年に及んだ。
ちなみに、黄海海戦での本艦の奮戦振りを元に「坂元少佐(赤城の奮戦)」という軍歌が作られた。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。