越前国 | |
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■-越前国 ■-北陸道 | |
別称 | 越州(えっしゅう)[注釈 1] |
所属 | 北陸道 |
相当領域 | 福井県嶺北地方(岐阜県郡上市白鳥町石徹白の区域を含む)・敦賀市[注釈 2] |
諸元 | |
国力 | 大国 |
距離 | 中国 |
郡・郷数 | 6郡55郷 |
国内主要施設 | |
越前国府 | 福井県越前市 |
越前国分寺 | (未詳) |
越前国分尼寺 | (未詳) |
一宮 | 氣比神宮(福井県敦賀市) |
越前国(えちぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。
北陸道がヤマト王権の支配下となった4世紀以降、角鹿国造、高志国造、三国国造、江沼国造、加我国造、羽咋国造、能等国造が設置された。
7世紀末の689年-692年(持統3-6年)頃高志国(こしのくに)が高志道前・高志道中・高志道後の3国に分割されたと想像されている。その後、高志前・高志中・高志後の表記を経て、大宝律令制定後の国印製作時に越前・越中・越後の表記に定まったと推定されている。 3国に分割された時の「越前国」の領域は、現在の石川県と、福井県の北部を含み、後の敦賀郡(旧角鹿国)、丹生郡(旧高志国)、足羽郡、大野郡、坂井郡(旧三国国)、江沼郡(旧江沼国)、加賀郡(旧加我国)、羽咋郡(旧羽咋国)、能登郡(旧能等国)、鳳至郡、珠洲郡の十一郡にわたる広大な面積であった。
養老2年(718年)5月2日に、現在の石川県北部にあたる羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を能登国として分立させた。
弘仁14年(823年)3月1日に、現在の石川県南部にあたる加賀郡と江沼郡を割いて加賀国を建てた。これ以後は郡単位の移管はなく、主に現在の福井県のうち南部 (若狭国)を除く部分が領域となった。7世紀末の越国からは五分割、8世紀初頭の越前国からは三分割されたことになるが、それでも残った越前国は延喜式による等級で北陸道唯一の大国に区分された。
なお、白山の西麓にあたる現在の石川県の一部(白山市の旧白峰村地域、同市旧尾口村地域の一部および同県小松市旧新丸村地域)は白山麓十八ヶ村とも呼ばれ、信仰登山をめぐる利権を巡って加賀側と越前側で中世以来帰属争いが絶えない地域であり、加越両国の間を揺れ動いた。最終的に越前国でありながら明治初期に石川県に加えられた地域となる[1][2]。美濃国との境にあった現岐阜県郡上市の旧石徹白村地域も、越前国の領域で一時は福井県だったが、昭和の大合併で岐阜県側に越境合併した[1]。
京都や奈良をうかがうのに近すぎず遠すぎずの大国[3]でもあり、古来、この地に拠って天下を争い、滅んだ武将が少なくない。新田義貞、朝倉義景、柴田勝家が挙げられ(特に義貞の籠城は、のちに即位無効とされたものの新天皇を推戴してのものである)、主将としてではないが大谷吉継、この地を再起の拠点として逃れる途上で殺された藤原仲麻呂などもこれに準じる。明智光秀も、一時期同国の住人であった。 継体天皇は、越前国から大和へ迎えられたとされ、万葉歌人としてよく知られる志貴皇子(天智天皇皇子)の母「越道君伊羅都売」もこの国の出自と考えられている。他に、直接天下取りに動いたわけではないが、徳川家康の次男であり英邁をうたわれながら弟の徳川秀忠に後継を譲らざるを得なかった結城秀康も、この地の領主として後半生を送った。米の産地として播磨国と「一播二越」(いちばんにえち)と称された[4]。
明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
国府は現在の越前市にあったとされる。遺構は見つかっておらず、未だ確定には至っていない。越前市役所(越前市府中)付近では平安時代初期の柱穴や「国寺」等の墨書銘土器が見つかっており、同地が国府跡となる可能性が指摘されている[5]。
尼寺跡も未詳。
なお、二宮を劔神社(丹生郡越前町織田、北緯35度57分28.19秒 東経136度3分19.44秒 / 北緯35.9578306度 東経136.0554000度)とする説があるが、中世史料はなく不詳[7]。三宮以下は未詳。
越前出身の商人は、商才に長ける人物が多かったため、越前商人として名が知られていた[8]。