すずい たかゆき 鈴井 貴之 | |
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![]() 2007年撮影 | |
本名 | 鈴井 貴之 |
生年月日 | 1962年5月6日(62歳) |
出生地 |
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身長 | 178 cm |
血液型 | O型 |
職業 | 俳優・タレント・映画監督・放送作家・脚本家・演出家・実業家・プロモーター・DJ・ラジオパーソナリティ |
ジャンル | テレビドラマ・映画・バラエティ |
活動期間 | 1982年 - [1] |
配偶者 | 伊藤亜由美(1993年 - 2017年) |
所属劇団 | OOPARTS |
事務所 | CREATIVE OFFICE CUE |
主な作品 | |
バラエティー番組 『モザイクな夜』(企画・構成・出演) 『水曜どうでしょう』(企画・出演) 『ドラバラ鈴井の巣』(脚本・出演) 『1×8いこうよ!』(構成) 『おにぎりあたためますか』(企画) 『北海道道』(出演) ラジオ番組 『GO・I・S』(出演) 映画 『man-hole』(監督) 『river』(監督) 『銀のエンゼル』(監督) 『銀色の雨』(監督) テレビドラマ 『ロス:タイム:ライフ』(演出) 『不便な便利屋』(監督・脚本) | |
備考 | |
CREATIVE OFFICE CUE会長 | |
鈴井 貴之(すずい たかゆき、1962年〈昭和37年〉5月6日 - )は、日本の俳優、タレント、映画監督、放送作家、脚本家、演出家、プロモーター、DJ、ラジオパーソナリティ。 また、実業家として、自身も所属する芸能事務所・株式会社CREATIVE OFFICE CUEの創業者で、現在は取締役会長を務める。
この他に、株式会社キュー・プロダクツの取締役会長、有限会社マンホールフィルムの取締役会長、株式会社コンサドーレの社外取締役(非常勤)[2][3]も務める。愛称は「ミスター」、「ミスターどうでしょう」[4][5]、「会長」[注釈 1]。
北海道赤平市出身・在住で[6]、北海道を中心に活動している。 血液型はO型[7]。CREATIVE OFFICE CUE社長の伊藤亜由美は元妻[8]。
北海道赤平市で生まれる。父親は中学校の教師だった。 幼少期は病弱で入退院を繰り返す日々を送る。 小さい頃から8ミリカメラで映画を撮るのが好きであった。 北海道長沼高等学校を経て、北海学園大学法学部に入学。演劇と出会い、6年在籍した後に大学を中退。
その後「ノーティーキッズ」、「劇団487パラシュート」など、いくつかの劇団を立ち上げた後に「劇団OOPARTS(オーパーツ)(1990年旗揚げ、1998年完全消滅)」を主宰し、作(脚本)・演出・出演を手掛ける(後に安田顕も所属する)[10]。
当時は、300人収容の札幌本多小劇場や倉庫などの芝居小屋が当たり前だった札幌演劇界の中で、700人収容の道新ホールなどの大ホールで公演。 北海道では「1000人の客を集める男」として演劇界に、その名を知られた。
1991年秋に、札幌本多小劇場で開催した初の一人芝居「LUNA-CY」では、ガラスを割ったり高所からの落下、エキストラに殴られるなどの過激なシーンが乱発。 自らの体に保険をかけたほどの意欲作で、楽日にはガラスで手を負傷。 終演後は血の滲む包帯姿で観客を見送り、その後に病院へ直行した。
この頃から、劇団と並行してすすきのでバーを経営していたが、劇団の公演で発生する赤字も含めた借金が膨れ上がり、極貧生活を送っていたという[11]。
1992年、北海道の舞台役者が専業で活動できる環境がなく、テレビ・ラジオの出演をマネージメントする事務所の必要を感じ、OOPARTSの劇団員であった伊藤亜由美と共にCREATIVE OFFICE CUEを設立し、代表取締役社長に就任する。 当初は鈴井だけであった所属タレントも年を経るごとに増え、現在ではTEAM NACS(森崎博之・安田顕・戸次重幸・大泉洋・音尾琢真)など、自らを含めた15人のタレントと4人のアーティストが所属する事務所となった。 また、1993年8月には、伊藤亜由美と結婚した[12]。1994年7月に長女が産まれる[12]。
演劇活動と芸能事務所経営を並行して、在札局のテレビ・ラジオ番組の出演・企画・構成を手掛け、AIR-G'では、夕方の帯番組『GO・I・S』を9年余り担当。 後に彼を北海道内で有名にしたのは、自ら企画し、所属俳優の大泉洋、当時HTBアナウンサーであった森田政仁などと共に出演した北海道テレビ放送(HTB)制作の深夜番組『モザイクな夜』である。
そして、全国的人気を獲得するきっかけとなったのが、大泉らと共に出演し、企画・構成もしたHTBの『水曜どうでしょう』である。 北海道以外でもその内容が話題になり、道内での本放送が終了した後も、テレビ朝日系列を中心とした地方局や関東・関西のUHF局で放送され、DVDによる販売では記録的な大ヒットとなっている。
かねてから映画を撮る夢を持っており、2001年には初映画監督作品『man-hole』を公開。 第10回あきた十文字映画祭で北の十文字賞、第15回福岡アジア国際映画祭2001で審査員特別賞を受賞。 また、ベルリン国際映画祭正式出品作品、金鶏百花映画祭2002公式招待上映作品と海外でも上映された。 その後も『river』、『銀のエンゼル』を製作、国内外の映画祭に次々と出品している。
2004年12月、大手芸能事務所・アミューズと業務提携し、アミューズが全国展開のマネージメントやプロモーションを行うようになった[9]。
2005年、アミューズの大里洋吉会長の勧めで韓国への映画留学をする[13]。 これに伴い、芸能活動を中断し、『GO・I・S』の後継番組であった『KING GO・I・S』は終了。 『ぽっぷこ〜んシネマ』は音尾琢真に譲る形で降板。1年間、タレント活動を休止した。 韓国ではカク・キョンテク監督の映画『タイフーン』に参加。 10か月間プロデューサー待遇でロケ現場や編集など、製作現場のほぼ全てに参加し映画制作に携わった。
帰国後の第一作「リーディングドラマ第一章“DIARY〜失ったガラスの靴を探して…”」の作・演出として約10年振りに本格的に舞台演出家としての活動を開始。 舞台役者としては、98年のOOPARTS消滅を以って引退したが「CUE DREAM JAM-BOREE 2006」では、プロデューサーたる大泉の策略によって同イベント限定で8年ぶりに舞台復帰した。 また、AIR-G'の『HOME&AWAY』でレギュラー番組が復活し、本格的に芸能活動を再開。 アルバイト北海道のCMをプロデュースしたり、JTB北海道のイメージキャラクターに起用されるなど留学前とは、また違った活躍をしている。
北海道以外からタレントとしてのオファーがあり、2006年3月にはエフエム青森の特別番組のメインパーソナリティーとして出演。 同年10月より、Date FM(FM仙台)をキー局とした、東北6県ブロックネットで『北風小僧』が放送されていた。
2008年、監督第四作『銀色の雨』を制作。 本作は鈴井にとって初の原作物(浅田次郎の同名短編小説)であり、これまで地元での撮影にこだわってきた鈴井が、初めて道外(鳥取県米子市)を舞台とする映画を制作した。
2009年、演劇プロジェクトとしてのOOPARTSの再復活を宣言した。 2010年10月には、プロジェクト第一弾として舞台公演『CUT』の上演を行った。
2012年8月1日より、CREATIVE OFFICE CUEの社長を退任し、会長に就任することが「CUE DREAM JAM-BOREE 2012」にて発表された。 社長の後任には、妻・伊藤亜由美が就任。
2015年6月、北海道新幹線の開業PRイメージキャラクターに任命され[14]、同年10月、北海道新幹線特任車掌に任命される[15]。
2017年2月1日、伊藤亜由美と離婚。3月にはCREATIVE OFFICE CUEのファンクラブ会報において離婚を発表した。 マスメディア向けにも連名でコメントを発表し、離婚の理由として「夫婦という枠やしがらみにとらわれない関係に戻ろうということで籍を戻した」としており、今後も共同で会社運営に当たりつつ、プレイヤーとプロデューサーとして協力しあいながら活動するとしている[8][16]。