長谷川 雪旦 | |
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生誕 |
後藤 茂右衛門 [1] 1778年 日本 江戸 |
死没 |
(享年66、満64歳もしくは65歳没) 日本 |
墓地 | 妙祐山幸龍寺(東京都世田谷区北烏山5-8-1に所在)寺町聖苑 長谷川氏代々之墓 |
国籍 | 日本 |
教育 | 長谷川雪嶺門下、高嵩谷門下 |
著名な実績 | 日本画、漢画、浮世絵 |
代表作 | 『江戸名所図会』『東都歳事記』 |
後援者 | 小笠原長昌(唐津藩主)、笹屋、高崎屋、ほか |
活動期間 | 1798年 - 1843年 |
影響を与えた 芸術家 | 長谷川雪堤 |
長谷川 雪旦(はせがわ せったん、安永7年〈1778年〉- 天保14年1月28日〈1843年2月26日〉)は、江戸時代後期の日本の絵師。本名は 後藤 茂右衛門(読み:ごとう しげえもん[2]、もしくは、- もえもん[3])[4]。氏姓は後藤を名乗る[4][2][5][6]が、本姓は金沢である[4]可能性が高い[7]。画姓は長谷川を名乗る[2]。名は宗秀(むねひで)[2][5][6]。通称は、後藤 右衛門(ごとう うえもん)[8]、茂右衛門(読み:しげえもん[2]、もしくは、もえもん[5])[6]、長之助[2][6](ちょうのすけ)。画号は、雪旦のほか、一陽庵(いちようあん)・巌岳斎(がんがくさい)・岩岳斎・嵒岳斎が知られている[2][8][5][3][6]。俳号は五楽[2][8][6](読み:ごがく、もしくは、ごらく [字引 1])。著名な親族としては子の長谷川雪堤(絵師)がいる。
『江戸名所図会』(1834-1836年刊)[2][3]・『東都歳事記』(1838年刊)[2][3]の挿図絵師として、また、唐津藩および尾張藩[7]の御用絵師として知られる。
唐津藩士の子[7]で、江戸出身[5]。住居は江戸・下谷三枚橋(現在の東京都台東区上野の仲御徒町駅付近[10])[2][3][6]。国立国会図書館には「雪旦・雪堤粉本」という大量の下絵や模写が一括して保存されており[6]、それらの研究により、雪舟13代を名乗る絵師・長谷川雪嶺を師としたことが確認されている[6]。その模写には師・雪嶺や雪舟の作品が複数存在しているが、それに留まらず琳派風・円山四条派風の図や、伝統的な仏画等も含まれており、雪旦が早い段階から様々な流派の絵をこだわりなく学んでいたことがわかる。
中年期には高嵩谷に師事し、狩野派も学んだという[7]。『増補浮世絵類考』の記述を元に、初めは彫物大工で後藤茂右衛門と名乗ったといわれるが、数え15歳にして既に画技はかなりの習熟を見せ、彫物大工の片手間にできる業ではなく、その可能性は低い。
現在確認できる雪旦最初の仕事は、寛政10年(1798年)刊行の『三陀羅かすみ』で、北尾重政や葛飾北斎と分担して雪旦も漢画を担当している。以後も、特定の流派に属することなく、漢画系の町絵師として狂歌本の挿絵や肖像画を描いて生計を立てる。また、俳諧を好み、五楽という俳号を名乗って文人たちと盛んに交流した[6]。
転機が訪れたのは40代に入った頃である。文政元年(1818年)、唐津藩主・小笠原長昌に従って唐津に赴いていることから[注 3]、この少し前に唐津藩の御用絵師になったものと推測され、今も唐津市には雪旦の作品が相当数残っている。このほかにも、雪旦はしばしば各地を旅し、その土地の名所や風俗の写生を多く残しており、こうした態度が『江戸名所図会』を生み出す土壌になったと言える。天保5年から7年(1834~36年)にかけて刊行された『江戸名所図会』では、650景にも及ぶ挿絵を描いて名声を得る。その甲斐あってか、文政12年(1831年)に法橋に叙せられている[6][11]。また、「長谷川法眼雪旦六十三歳」と款記のある作品も見えることから[11]、天保11年(1839年)頃には法眼に叙せられていたと分かる[6][11]。 一方、唐津藩の小笠原家とは長昌が文政6年(1823年)にわずか28歳で没して以降、疎遠になったと見られる[6][注 4]。
天保14年(1843年)で死去。享年66[6]、満年齢で64歳もしくは65歳であった。当時は浅草新谷町(のちの浅草芝崎町。現在の東京都台東区西浅草3丁目)にあった妙祐山幸龍寺に葬られた。その後、寺は関東大震災で罹災・焼失し、昭和初期になってから墓地ともども世田谷区北烏山へ移転している。
弟子として、息子の長谷川雪堤や、朝岡且嶠がいる。「親族と一門」節も参照のこと。
『三陀羅かすみ(さんだら かすみ)』
『江戸名所花暦(えど めいしょ はなごよみ)』 [12]
『江戸名所図会(えど めいしょずえ)』
『東都歳事記(とうと さいじき)』
『東海道五十三次略図(とうかいどうごじゅうさんつぎ りゃくず)』 [22]
『魚類譜(ぎょるい ふ)』
作品名 | 画材 ・ 技法 |
形状 ・ 員数 |
寸法(縦×横|単位:cm) | 所有者等 | 制作年代 | 落款 | 備考 |
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鎌倉図(鎌倉・江の島図屏風)[23][1] | 六曲一双 | 152.5×332.0 | 東京都 所有 江戸東京博物館 収蔵 |
天保5年(1834年)頃 | 款記「長谷川法橋藤原雪旦画」/「藤原雪旦」朱文方印 | 江の島と相模の海と富士の眺望を描いた鳥瞰図。 | |
十二ヶ月図 [24] | 軸装12幅 | 各128.4×49.9 | 東京都 所有 江戸東京博物館 収蔵 |
制作年不明 | 「一月 小松引」「二月 若芽柳に鶯」「三月 鯉の瀧昇り」「四月 田植」「五月 鍾馗」「六月 江の島磯遊び」「七月 文使い」「八月 花鳥図」「九月 秋山鹿図」「十月 恵比須」「十一月 寒牡丹」「十二月 浅草寺歳の市」の12幅からなる。 | ||
韓信股くぐりの図 | 絵馬1面 | 成田山霊光館 | 天保6年(1835年)9月 | 画題「韓信股くぐりの図」を、絵馬堂に掲げる大絵馬[字引 3]として描く。千葉県指定有形民俗文化財[25]。現在は成田山新勝寺関連の歴史博物館である「成田山霊光館」の主要な収蔵品となっている[25]。 | |||
絹本著色 | 軸装1幅 | 84.5×29.0 | 個人旧蔵 早稲田大学 所有 早稲田大学図書館 収蔵 |
天保7年(1836年) | 款記「巌岳斎雪旦 画」 | 古稀を迎えた滝沢馬琴(曲亭馬琴)翁の肖像画。賛の位置に「 | |
春秋隅田川図屏風 [26] | 六曲一双 | 文教大学 所有 文教大学湘南図書館 収蔵 [26] |
天保5 - 8年(1834-37年)頃 [26] | 筑波山を遠景に、桜咲く古隅田川東岸を右隻に描き、永代橋から富士山を遠景に、紅葉する佃島付近を左隻に描く[26]。右隻を雪堤が、左隻を雪旦が担当している[26]。花見をする江戸の庶民や永代橋を往来する人々の風俗が仔細に描かれている[26]。 | |||
四季耕作図屏風 | 六曲一双 | 佐賀県 所有 佐賀県立博物館 収蔵 |
天保9年(1838年) | 画題「四季耕作図」を描く。 | |||
桐地著色金泥 | 絵馬1面 | 108.9×169.8 (額面) |
金龍山浅草寺 所蔵 | 天保10年(1839年)2月 | 款記「長谷川法橋雪旦」/「宗秀」朱文方印 | 楠木正成にゆかりの画題「桜井の別れ図」を、絵馬堂に掲げる大絵馬として描く[27]。なお、楠木正成の尊称である「 | |
桐金箔地著色 | 絵馬1面 | 187.0×13.6 (額面) |
金龍山浅草寺 所蔵 | 天保11年(1840年)2月 | 款記「長谷川法眼雪旦六十三歳画」/「宗秀」朱文方印 | 屋島の戦いと藤原景清に由来する歌舞伎・浄瑠璃の外題『錣引』の一場面を、絵馬堂に掲げる大絵馬として描く[27]。 | |
絹本著色 | 軸装1幅 | 109.8×26.9 | 早稲田大学 所有 早稲田大学図書館 収蔵 |
書写年不明 | 款記「長谷川嵒岳躋」 | 雪旦・雪堤父子の合作。 | |
松島眺望図 | 絹本淡彩 | 軸装1幅 | 57.0×101.5 | 仙台市 所有 仙台市博物館 収蔵 |
日本三景の一つ、松島を描く。 | ||
達磨図 | 紙本著色 | 軸装1幅 | 172.5×91.7 | 金沢山称名寺 所有 金沢文庫 収蔵 |
款記「長谷川雪旦拝画」[29] | 達磨大師を描く。 | |
維摩居士図 | 紙本著色 | 軸装1幅 | 172.3×91.7 | 上に同じ | 款記「長谷川宗秀藤原雪旦筆」[29] | 維摩居士を描く。 | |
絹本著色 | 軸装3幅対 | 各94.8×33.3 | 日本国 所有 国立文化財機構 管理 東京国立博物館 収蔵 |
中秋の名月を中幅に、それ以前に収穫された麦と大豆を右幅に、以後に刈り穫られた稗・稲・粟を左幅に描く。五穀豊穣の願いを籠めたと考えられる。[30] | |||
軸装1幅 | 87.9×117.7[31] | 上に同じ | ひとりの白拍子を描く。 |
自筆の書簡とされているものは2通が知られている[1]。一つは、明治大学図書館蔵の「長谷川雪旦書簡」、今一つは、東京都立中央図書館蔵『江戸名所図会稿本』に貼り込まれている書簡である[1]。1通目は差出人が「長谷川雪旦」で「斎藤市左衛門」が受取人、2通目は差出人が「雪旦」で「月岑」が受取人となっている[1]ことから、少なくとも2通目は長谷川雪旦が『江戸名所図会』の著者・斎藤月岑に宛てた書簡であることが分かる[1]。1通目は断定できないものの、斎藤月岑は九代目斎藤市左衛門であることや、後述する月岑の日記からも、件の「斎藤市左衛門」と斎藤月岑は同一人物と推定できる。
斎藤月岑が遺した日記からは、国学者の一家で江戸は神田雉子町[20]の町名主を代々務めた斉藤家の人々と、絵師の一家である雪旦の後藤家(長谷川家)の人々が、盛んに交流していたことを窺い知れる[33]。なかでも雪旦は、斉藤家八代目当主・県麿[20]と九代目当主・月岑の二人とよく交流し、互いに行き来していた様子が書き留められている[33]。ただ、記録されている具体的内容のほとんどは、著者と挿図絵師という関係の上での事柄ではある[33]。
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