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1932年 | ||||
選手情報 | ||||
ラテン文字 | Izuo Anno | |||
国籍 | 日本 | |||
競技 | トラック競技 (短距離走) | |||
種目 | 100m, 200m | |||
大学 | 慶應義塾大学 | |||
生年月日 | 1909年12月2日 | |||
出身地 | 山口県 | |||
没年月日 | 1939年12月18日(30歳没) | |||
死没地 | 中華民国広西省 | |||
身長 | 169cm | |||
体重 | 63kg | |||
成績 | ||||
オリンピック |
100m 2次予選4組5着 (1932年) 4×100mリレー5位 | |||
自己ベスト | ||||
100m | 10秒7 | |||
200m | 21秒9 | |||
編集 |
阿武 巌夫(あんの いずお、1909年12月2日 - 1939年12月18日[1][注 1])は、日本の男子陸上競技選手。専門は短距離走。山口県出身。
1909年、山口県阿武郡大井村(現・萩市)に、大井八幡宮宮司の子息として生まれる[2]。山口県立萩中学校(現・山口県立萩高等学校)に進学するが、1927年に山口市の私立鴻城中学校(現・山口県鴻城高等学校)に転学した[2]。1928年に京都市で開催された全国中学校大会では100m・200mに優勝した[2]。
1929年、慶應義塾大学に進学[2]。日本陸上競技選手権大会の200mでは1931年と1932年に連覇を達成している。ベストタイムは100mが10秒7、200mが21秒9であった[2]。
在学中の1932年、ロサンゼルスオリンピックに、短距離走の代表として吉岡隆徳らとともに選ばれる。100mは二次予選5位に終わった(レースの詳細は1932年ロサンゼルスオリンピックの陸上競技・男子100mを参照)が、吉岡・南部忠平・中島亥太郎とチームを組んだ4×100mリレーでは第三走者となり、5位入賞を果たした[2][3]。
1939年、歩兵第42連隊第1中隊陸軍上等兵として[4]出征した日中戦争の南寧作戦中、広西省南寧東北方九塘付近の戦闘(崑崙関の戦いも参照)において中国軍の迫撃砲攻撃により戦死した[1]。
出身地である萩市大井地区では、地元の小中学生が参加する「阿武巌夫記念大井地区子ども駅伝大会」が開催されている[5]。