インドネシアの歴史 |
---|
初期王国 |
クタイ王国 (4世紀末-5世紀初め頃) |
タルマヌガラ王国 (358-723) |
スンダ王国 (669-1579) |
シュリーヴィジャヤ王国 (7世紀–14世紀) |
シャイレーンドラ朝 (8世紀–9世紀) |
古マタラム王国 (752–1045) |
クディリ王国 (1045–1221) |
シンガサリ王国 (1222–1292) |
サムドラ・パサイ王国 (1267-1521) |
マジャパヒト王国 (1293–1500) |
イスラーム王朝の勃興 |
マラッカ王国 (1400–1511) |
ドゥマク王国 (1475–1518) |
アチェ王国 (1496–1903) |
バンテン王国 (1526–1813) |
パジャン王国 (1568年-1586) |
マタラム王国 (1500年代-1700年代) |
ヨーロッパ植民地主義 |
オランダ東インド会社 (1602–1800) |
オランダ領東インド (1800–1942) |
インドネシアの形成 |
日本占領下 (1942–1945) |
独立戦争 (1945–1950) |
オランダ・インドネシア円卓会議 (1949) |
インドネシアの独立 |
9月30日事件 (1965–1966) |
青年の誓い(せいねんのちかい、英語: Youth Pledge、インドネシア語: Sumpah Pemuda)は1928年10月28日にオランダ領東インドジャカルタにおいて、インドネシアの青年民族主義者が開催した第2回インドネシア青年会議でたてられた誓いである。民族主義者たちは誓いの中で、一祖国、一民族、一言語という思想を掲げた[1]。
第1回インドネシア青年会議が1926年に当時オランダ領東インドの首都であったバタヴィア(現名称:ジャカルタ)で開催された。この会議では公式の決定はなされなかったが、インドネシア統一に関する議論が行われた。
1928年10月28日、第2回インドネシア青年会議が3つの異なる場所で開催された。最初のセッションでは、会議はインドネシア統一を鼓舞する希望であることが確認された。2つ目のセッションでは、教育問題に関する議論が行われた。最後の第三セッションは10月28日に開催され、ワゲ・ルドルフ・スプラットマンにより作曲された未来のインドネシア国歌となるインドネシア・ラヤが参加者に向けて演奏された。
第2回インドネシア青年会議は青年の誓いの読み上げとともに閉会となった[2][3]。
Pertama
Kami poetera dan poeteri Indonesia, mengakoe bertoempah darah jang satoe, tanah air Indonesia.
Kedoea
Kami poetera dan poeteri Indonesia, mengakoe berbangsa jang satoe, bangsa Indonesia.
Ketiga
Kami poetera dan poeteri Indonesia, mendjoendjoeng bahasa persatoean, bahasa Indonesia.
日本語訳:
一、
我々インドネシア青年男女は、インドネシアという一つの祖国をもつことを確認する。
二、
我々インドネシア青年男女は、インドネシア民族という一つの民族であることを確認する。
三、
我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用する。