たかもりまち 高森町 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方(甲信越地方) | ||||
都道府県 | 長野県 | ||||
郡 | 下伊那郡 | ||||
市町村コード | 20403-0 | ||||
法人番号 | 5000020204030 | ||||
面積 |
45.36km2 | ||||
総人口 |
12,467人 [編集] (推計人口、2024年10月1日) | ||||
人口密度 | 275人/km2 | ||||
隣接自治体 | 飯田市、下伊那郡松川町、豊丘村、喬木村 | ||||
町の木 | 金木犀、柿 | ||||
町の花 | やまぶき | ||||
高森町役場 | |||||
町長 | 壬生照玄 | ||||
所在地 |
〒399-3193 長野県下伊那郡高森町下市田2183-1 北緯35度33分06秒 東経137度52分43秒 / 北緯35.55153度 東経137.8785度座標: 北緯35度33分06秒 東経137度52分43秒 / 北緯35.55153度 東経137.8785度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
高森町(たかもりまち)は、長野県下伊那郡にある町。伊那谷の南部に位置し、天竜川の西側に町域が広がる[1]。
1957年(昭和32年)7月1日に下伊那郡市田村と同郡山吹村が新設合併して発足した町で、山頂が両村の境になっていた本高森山(標高1,889.8 m)が町名の由来である[1]。
長野県の南信地方の中央部にあり、下伊那郡の北部に位置している。南アルプスと中央アルプスに挟まれた天竜川の河岸段丘にある。町の東西でかなりの標高差がある。
高森町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 高森町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 高森町
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
高森町(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
戦国時代には座光寺氏が伊那郡の国衆として活動した。座光寺は山吹館を本拠とし、はじめ甲斐国の武田氏に従い、1582年(天正10年)3月の武田氏滅亡後は徳川氏に従っている。
1889年(明治22年)4月1日には町村制の施行により、下伊那郡市田村・山吹村が発足した。
1957年(昭和32年)7月1日、市田村と山吹村が合併して高森町が発足した。前高森山・本高森山が町名の由来である。
1961年(昭和36年)6月には昭和36年梅雨前線豪雨で大水害(36災害、さぶろくさいがい)が発生した。
2002年(平成14年)には世界中の蘭をあつめた博物館である蘭ミュージアム高森が開園したが、経営難のために2009年(平成21年)11月1日に閉園した。
2006年(平成18年)1月16日、5期20年と長い間町長を務めてきた吉川貢町長の任期切れにより町長選が行われた。吉川町長は6期目満了後の引退を宣言しており、現職と新人3人の計4人の争いとなった。新人で43歳の熊谷元尋が当選した。投票率は前回の町長選に比べて5%あまり落ちた。
2010年(平成22年)1月12日に町長選が告示され、現職の熊谷元尋が無投票で2選を果たした。
2005年(平成17年)7月、高森町町議会議員選挙が行われた。それまで二期に渡って無投票で終わっていたが、この年は定員以上の候補者があつまり選挙となった。しかし地元の新聞などでは「地域選挙の域を出なかった」と評されるなどとても活発に行われたものではなかった。どの候補も「福祉」「町の自立」の二つを掲げたものの主張は具体性を欠き、近年町で起こっている出来事に対しての公約や主張というものがほとんどなかったのである。しかし一部で「このまま無投票が続けば、高森はだめになる」という動きがあり、それによって出馬したものがいたという事に関しては今までにない動きであった。[独自研究?]
2003年(平成15年)4月、町内で、音声のみの町内の簡単なニュースと、町内のみの話題を取り扱った番組、そして、町内のみで通じる電話という有線放送を行っていた「高森町有線放送農業協同組合」が高森町ケーブルテレビに移行した。これは、高森町全体をケーブルテレビのテレビ放送、光同軸ハイブリッド伝送方式を使った高速IP回線と、近隣の有線放送、ケーブルテレビの電話と相互接続が可能なようにNTT加入電話と同じ番号を使うなど、地域情報化を意識した作りになっている。ただし、開設されてから後現在に至るまで、サービスの拡充は行われておらず、さらにケーブルテレビは地元で普通に受信できる地上波およびNHKBSの送信にとどまっている。[要出典]
長野県内で初となる、「高森町町民参加条例」を2003年(平成15年)4月1日に施行した。これは町民が、自治組織における自らの役割と責務を自覚し、自主的かつ主体的に自治活動に取り組みながら、積極的にまちづくりに参加するようにと定められている。この条例をめぐり、当時、町議会において激しい議論が交わされた。[要出典]
2005年(平成17年)春、町より町役場前のほら(小さな沢でけずられた谷)である「唐沢洞(からさわぼら)」にたいして埋め立てを行い、そこに公共施設の駐車場、および洞を横断し町役場へのアクセスをよくする、さらには中学校への通学路の安全を確保する、といった計画が発表された。
それに対して、1961年(昭和36年)に長野県南部を襲った大災害「三六災害」を経験した者が先頭に立ち、その洞より低い場所に住む者達を中心に、計画に対し異議を唱える陳情が出された。反対派は、洞は水があつまって出来た場所であるため豪雨が降ると大量の水が集まることによって、崩れる危険性が非常に高いということ、さらには、かつての災害のとき、非常に崩れた箇所であり、近年の豪雨災害では埋め立てた箇所が表面がすべるように崩れている点を指摘している。さらには町が主張することはほぼ代案によってそれよりも安全に安価に地域の風景を破壊することなく実現可能としている。
しかしこの陳情は町議会では否決され受け入れることすらなかった。しかし、反対派は働きかけを続けており、議論が繰り広げられている。
町のキャッチコピーは「柿とカヌーと祭りの町」。柿とは、特産品の「市田柿」という干し柿の事を指し、カヌーとは、町の端、豊丘村、喬木村との間を流れる天竜川にカヌーが出来る港を作って毎年大会などを開いていることを指す。祭りは、町の西にある瑠璃寺より、地方に広まったと言われる獅子舞が披露される祭りや、町の中の地区などが主宰する納涼祭などの祭りが盛んに開かれていることを言っている。
別のキャッチコピーとして「富本銭の町」がある。かつて町域から日本最古の貨幣とされている富本銭が発掘されていたことに由来する。
農地は多いが、産業としては農業より製造業や卸売・小売業が主要である。
標高の高い場所ではリンゴやナシなどの果樹が、天竜川に近い場所では市田柿が特産である。
市田柿は高森町市田(旧・市田村)が発祥の地であり、主に干し柿に加工される[3]。大正時代に市田村の事業として市田柿という名前が付けられ、上沼正雄らによって商品化が行われた[4]。2006年(平成18年)には市田柿が長野県初の地域団体商標として登録された[3]。
高森町によって高齢者を対象にした福祉バスが運行されている。