たかはし もとすけ 高橋 資祐 | |
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プロフィール | |
生年月日 | 1941年1月11日 |
出身地 | 日本・宮城県石巻市 |
没年月日 | 2007年11月8日(66歳没) |
出身校 |
宮城県石巻高等学校 日本デザインスクール |
職業 |
アニメーター アニメ演出家・監督 キャラクターデザイナー |
活動期間 | 1966年 - 2007年 |
ジャンル | アニメーション |
高橋 資祐(たかはし もとすけ、1941年〈昭和16年〉1月11日 - 2007年〈平成19年〉11月8日)は、日本の男性アニメーター、アニメ演出家・監督、キャラクターデザイナー。宮城県石巻市出身。
1959年3月に宮城県石巻高等学校卒業後、石巻市役所に就職。美術を学ぶため、日本デザインスクールに入学するも1963年に同校を中退。第一広告(現・I&S BBDO)、文珠デザインスタジオの商業デザイナーを経て、草月アニメフェスティバルでアニメに興味を持ち、1966年8月に新聞の社員募集広告に応募して竜の子プロダクション(タツノコプロ)へ入社。
同プロでは笹川ひろしや吉田竜夫らの下で『おらぁグズラだど』『昆虫物語 みなしごハッチ』などの原画・演出を担当した他、作画チーフも務めた。
1975年にタツノコプロを退社した後は、しばらくフリーランスの立場でキャラクターデザイナー・作画監督・演出家として活躍。長浜忠夫の下で『勇者ライディーン』『超電磁ロボ コン・バトラーV』『闘将ダイモス』『未来ロボ ダルタニアス』といった日本サンライズ(現・サンライズ)制作のロボットアニメの作画・演出を経験し、1977年には『超スーパーカー ガッタイガー』でチーフ・ディレクターに初就任した。
1979年頃に作画スタジオ「スタジオドオタク」を結成して代表者を務め、1980年代からは、タツノコプロ時代以来の仲間が設立したスタジオぴえろ(現・ぴえろ)作品に多く参加した。中でも高橋留美子作品との縁は深く、ぴえろが制作した『うる星やつら』のテレビシリーズには1981年の開始当初からドオタク所属の遠藤麻未・山本直子らとともにローテーションで参加した他、OVA『るーみっくわーるど』シリーズの『炎トリッパー』『ザ・超女』『笑う標的』の監督も務めた。押井守曰く、スタジオぴえろの切り札的存在であった[1]。
宮崎駿が高橋資祐の『うる星やつら』「竜之介登場! 海が好きっ!!」での波の作画に感心したというエピソードもある[2]。
その後も長くフリーの演出家・作画監督として活動の拠点をぴえろに置いて活躍していたが、『劇場版BLEACH The DiamondDust Rebellion もう一つの氷輪丸』の制作に参加していた最中の2007年11月8日、肺癌のため66歳で死去した。同作品上映時には、最後に高橋への追悼メッセージが映し出された[3]。
スタジオドオタクは、高橋が日本サンライズの仕事で出会った遠藤麻未と共に、1979年頃に創設した作画スタジオである(後、山本直子も加入)。ドオタク内での高橋の呼称は「社長」。1983年当時は東京都田無市田無駅近くのマンションの1室を借りてスタジオにしていた。スタジオ名の由来は、「動画の宅」と銅鐸。メンバーを3人以上に増やさないこと、スタジオぴえろの仕事を中心にして、他社の仕事をまずしないことを方針としていた[4]。