1931年のグランプリ・シーズンはAIACRヨーロッパ・ドライバーズ選手権のタイトルが懸けられた最初のグランプリ・シーズンである。選手権はアルファコルセのフェルディナンド・ミノイヤが制したが、ミノイヤがシーズン中グランプリに勝利することは無かった。現在のFIA世界耐久選手権と同様に選手権は耐久レースで構成され、3つのグランプリは全て10時間の耐久レースとして行われた。長時間のグランプリを走り抜くため多くのチームが複数のドライバーでレースを戦った。
シーズン開幕前、前年にアルファロメオでチームメイトのタツィオ・ヌヴォラーリと激しく争い、イタリア選手権を制したアキーレ・ヴァルツィがブガッティに加入した。イタリアを代表するドライバーだったヴァルツィがフランスのメーカーと契約したことはイタリア国内で大きな物議をかもした。[1]
このシーズン、アルファロメオは最初のモノポスト(シングルシーター)レースカーとなるアルファロメオ・ティーポA(英語版)を投入した。一方のブガッティは長年活躍してきたタイプ35の後継として新型の2.3Lブガッティ・タイプ51(英語版)を投入した。
注目されたヌヴォラーリとヴァルツィの対決だったが、両者はマシントラブルに悩まされ、最初のヨーロッパ選手権を制したのは堅実な成績を残したアルファロメオのミノイヤだった。
7月のドイツグランプリは雨のレースとなり、多くのドライバーが苦戦する中メルセデスSSK(英語版)に乗るルドルフ・カラツィオラがこのグラン・エプルーヴを制し、世界恐慌の中で悲惨な経済状況に苦しむドイツ国民に明るいニュースを届けた。カラツィオラはこの年のアヴスレンネンとアイフェルレンネンも制し一躍レース界の注目を集めることとなった。
黄色の背景はグラン・エプルーヴ
ミノイヤとカンパーリは同ポイントで選手権を終えたが、ミノイヤの合計走行距離がカンパーリを上回ったためミノイヤがチャンピオンとなる
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色 |
結果 |
ポイント
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金色 |
勝者 |
1
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銀色 |
2位 |
2
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銅色 |
3位 |
3
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緑 |
レースの75%以上を消化 |
4
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青 |
レースの50%以上 75%未満を消化 |
5
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紫 |
レースの25%以上 50%未満を消化 |
6
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赤 |
レースの25%未満を消化 |
7
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黒 |
失格 |
8
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白 |
参加せず |
8
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- ^ ノイバウア, アルフレッド 著、橋本茂春 訳『スピードこそ我が命』荒地出版社、1968年、30頁。
- ^ イワノフスキはロシア国籍だが、ロシア革命のために亡命中だった