オリンピックの日本選手団 | ||||
日章旗 | ||||
IOCコード: | JPN | |||
NOC: | 日本オリンピック委員会 公式サイト | |||
1932年ロサンゼルスオリンピック | ||||
人員: | 選手 131名、役員 61名 | |||
旗手: | 織田幹雄 | |||
メダル 国別順位: 5 位 |
金 7 |
銀 7 |
銅 4 |
計 18 |
夏季オリンピック日本選手団 | ||||
冬季オリンピック日本選手団 | ||||
1932年ロサンゼルスオリンピックの日本選手団(1932ねんロサンゼルスオリンピックのにほんせんしゅだん)は、1932年にアメリカ合衆国・ロサンゼルスで行われた1932年ロサンゼルスオリンピックの日本選手団。なお、ここでは台湾・朝鮮出身者も掲載される。選手名及び所属は1932年当時のもの。
役員:山本忠興
役員:山岡慎一
役員:三浦義雄
役員:馬場譲
役員:蓮見宏
役員:沖田芳夫
役員:小山濠一
役員:高田通
嘱託:古川義三郎
嘱託:春日弘
嘱託:大川宏三
嘱託:加賀一郎
シャペロン:塚生艶
役員:松沢一鶴
役員:野田一雄
役員:杉本伝
役員:島崎保正
役員:野村憲夫
役員:安部輝太郎
役員:白山源三郎
役員:柳田亨
シャペロン:白山広子
嘱託:田中慶雄
嘱託:深山杲
役員:大谷武一
役員:高木武夫
役員:下津屋俊夫
役員:二宮文右衛門
役員:宮沢孝
役員:石川輝
役員:下田辰雄
役員:佐藤信一
役員:広瀬藤四郎
役員:東俊郎
役員:椋原政治
役員:松島孝二郎
役員:永井久雄
役員:綾井寅吉
嘱託:深沢政介
嘱託:富田勝善
出展41名、46作品:絵画(日本画、洋画、版画)33点、彫刻10点、建築3点[1]
団長:平沼亮三
本部役員:今村次吉(兼レスリング役員)
本部役員:郷隆
本部役員:高島文雄
本部役員:佐藤武雄
本部役員:渋谷寿光
本部役員:田畑政治(兼水泳役員)
本部役員:野津謙
本部役員:野口岩三郎
本部役員:李相佰
本部役員:斎藤一男(嘱託)
本部役員:川澄公明
本部役員:ダーギン
本部役員:中野五郎
本部役員:塩原禎三
日本からアメリカへ向かう船中で、乗り合わせたインドのグル・ガット・ソンディが「インドはアーリア人でアジアの連中とは人種が違う、日本人は蒙古の出身だ」と発言し、日本選手一同は憤激、前回アムステルダム大会の金メダリストという誇りを持っていた鶴田義行はソンディを海に投げ込もうとした[2]。ソンディが謝罪したことで事なきを得たが、当時の国際社会における日本人の評価を窺える出来事となった[2]。
日本選手団、特に競泳での活躍は日系アメリカ人に大きな影響を与えた[3]。前年の日米対抗水上競技会で日本人がアメリカ人に勝てることは日系人の間でも知られていたが、一部には実力を疑う人もおり、ある日系二世の若い女性は「日本人が白人に勝てるわけがない。勝つとか強いとか言って歓迎会をやってもらいたいのじゃないか。」と発言して高橋成夫を怒らせた[4]。彼女らはオリンピックでの日本選手の活躍に驚嘆し、終了後の歓迎会では口々に先の非礼を詫び、「祖国を見直した。本当にありがとう。」と感謝した[5]。またある初老の日系一世の男性は田畑政治に握手を求め、「これまで街中で『お前は日本人か』と白人に問われても迫害を受けると思って無視していた。さっき道の真ん中で聞かれ、『そうだ、俺は日本人だ』と答えたら『日本の水泳選手は素晴らしい、おめでとう』と手を握られた。アメリカに渡って27年、俺は日本人だと腹の底から口に出してこんなに嬉しいことはなかった。」と熱く語った[6]。帰国途上で寄港したハワイでも、現地在住の東本願寺の僧から「日本人として肩身が広くなった。どれだけハワイの邦人が自信を増したかわからない。」と感謝された[7]。この経験を通して田畑はスポーツを通した相互理解、勝つことのすばらしさを実感し、オリンピックを重視する姿勢の基礎となった[8]。