以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1963年のできごとを記す。
1963年4月8日に開幕し10月6日に全日程を終え、ナショナルリーグはロサンゼルス・ドジャースが4年ぶり14度目のリーグ優勝で、アメリカンリーグはニューヨーク・ヤンキースが4年連続28度目のリーグ優勝であった。
ワールドシリーズはロサンゼルス・ドジャースがニューヨーク・ヤンキースを4勝0敗で破り4年ぶり3度目のシリーズ制覇となった。
1962年のメジャーリーグベースボール - 1963年のメジャーリーグベースボール - 1964年のメジャーリーグベースボール
アメリカンリーグは、ヤンキースが104勝を挙げてリーグ4連覇となった。投手陣がホワイティー・フォード24勝(最多勝)、ラルフ・テリー(17勝)に加えてジム・バウトン(21勝)、アル・ダウニング(13勝)と若手が伸びたことが大きく、それに比べて打撃陣はミッキー・マントルが守備で外野フェンスに激突して左脚を骨折しシーズン65試合しか出場できず打率.314・本塁打15本・打点30に終わった。この時に左ヒザを痛め、デビュー時に右ヒザを痛めてマントルを10年間悩ましていたのが今度は丈夫な左ヒザを故障して、以降両ヒザの故障を抱えこの年からかつてのような豪打は見られなくなった。そしてロジャー・マリスも腰を痛めて90試合しか出場できず、打率.269・本塁打23本・打点53で2年前にベーブ・ルースの60本に迫った頃のMM砲では無くなっていた。その代わりにエルストン・ハワード(打率.287・本塁打28本・打点85)がリーグMVPに選ばれ、ジョー・ペピトーン一塁手(本塁打27本・打点89)の活躍で二人の穴埋めをした。首位打者はレッドソックスの カール・ヤストレムスキー (打率.321)が獲得したが彼は4年後に三冠王に輝いた。打点王も同じレッドソックスのディック・スチュアート (打点118)でスチュアートはその後1967年に日本の大洋ホエールズに入団した。本塁打王はツインズの ハーモン・キルブルー (本塁打45本)が2年連続、盗塁王はオリオールズのルイス・アパリシオ(盗塁40)で8年連続となった。
ナショナルリーグは、ドジャースが4年ぶりの優勝となった。サンディ・コーファックスが25勝、防御率1.88、奪三振306で最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手三冠を達成し、併せてリーグMVPとサイ・ヤング賞も同時に受賞し、ドン・ドライスデール(19勝)、ロン・ペラノスキー(16勝・防御率1.67・21セーブ)という層の厚い強力な投手陣であった。前年に首位打者と打点王となったトミー・デービス(打率.326)が2年連続首位打者となった。しかしこの後は成績が落ち、1967年に彼はメッツに移ってから10年間に11球団を渡り歩くことになる。モーリー・ウィルスが4年連続盗塁王となったが盗塁40で終わった。ブレーブスのハンク・アーロン(打率.319・本塁打44本・打点130)が本塁打王と打点王を獲得し、1954年デビューしてから10年間に首位打者2回・本塁打王2回・打点王3回という実績を残した。ジャイアンツのウィリー・マッコビー (本塁打44本)も同じ本数で本塁打王を初めて獲得した。やがて1968~1969年に彼はピークを迎える。そしてフアン・マリシャル(25勝) がコーファックスと並んで初めて最多勝を獲得し、以降ジャイアンツのエースとして君臨した。また最多勝の二人は揃ってこの年にノーヒットノーランを達成している。
ワールドシリーズは、非力なヤンキース打線がドジャースの強力な投手の前に沈黙して一度もリードすることなく、ドジャースの4勝無敗で終わった。ヤンキースが一度も勝てないままのシリーズ敗退は1922年にジャイアンツを相手に4敗1分け以来で、完全なストレート負けはこれが初めてであった。
セントルイス・カージナルスは戦後の1946年に9度目のリーグ優勝と6度目のシリーズ制覇以降、優勝からは遠ざかっていた。1940年代には3度リーグ優勝を飾り、ナショナルリーグの強豪チームであったがドジャースの台頭とブレーブスの躍進、そして古豪ジャイアンツに挟まれるように低迷の時代であった。1953年にビール会社バドワイザーの経営者オーガスト・ブッシュがオーナーとなり、スタン・ミュージアルやレッド・ショーエンディーンスト(後に1965年から1976年までカージナルス監督)を中心とした打線がやがてケン・ボイヤー、ドン・ブラッシンゲーム(後にジャイアンツからレッズに移籍)が育ち、1958年には日米野球で日本を訪れて日本の野球ファンに強い印象を与えた。1958年にビング・デヴァインがGMに就任し、スタン・ミュージアルの衰えとともにビル・ホワイト、カート・フラッド、投手でボブ・ギブソンら黒人の若い力が伸びつつあった。1961年のシーズン途中でジョニー・キーンが監督となって、この1963年にはギブソンとブローリオが18勝、ホワイトが本塁打27本・打点109、ボイヤーが本塁打24本・打点111の活躍で終盤までドジャースと優勝争いをして93勝でチームは2位となった。この年のオールスターゲームでは一塁ビル・ホワイト、二塁フリアン・ハビエル、三塁ケン・ボイヤー、遊撃ディック・グロートと内野陣の先発メンバーは全員カージナルスであった。そして翌1964年のシーズン途中でシカゴ・カブスからルー・ブロックを獲得し、これが1964年のカージナルスの奇跡につながっていく。
そしてカージナルスの至宝スタン・ミュージアルがこの年限りで引退した。球界一の紳士として誰からも愛されたスーパースターは通算打率.331・本塁打475本・打点1951、首位打者7回・打点王2回・リーグMVP3回、通算二塁打725本・通算安打3630本(この通算安打をホームとビジターで分けると全く同じ数字の1815本)。その他16年連続三割以上、895試合連続出場、試合出場3026など同じ時期のテッド・ウィリアムスに比べても引けを取らない成績で、1948年に1シーズンに1試合5安打を4回達成して、これはタイ・カッブと並ぶ記録であり、ジョー・ディマジオの56試合連続安打と並んで、今後破られそうにない記録とされている。(1969年に殿堂入り)
この年の春のレッズ対ヤンキースのオープン戦で22歳の新人が二塁手として出場した。春のキャンプで正二塁手ドン・ブラッシンゲーム(ジャイアンツから移籍)が故障で戦列を離れたため、急に22歳の選手が昇格してデビューしたのだった。最初の打席で四球となったが、この選手はそのまま一塁まで全力疾走で駆け込んだ。これをダグアウトから見ていたヤンキースのマントルとフォードは大笑いして、フォードは思わず「いいぞ。ハッスル坊や(チャーリー・ハッスル)」と叫んで揶揄った。たまたま近くにいた新聞記者がこれを聞いて翌日の記事に載せると、この選手に「ハッスル坊や(チャーリー・ハッスル)」のニックネームが付くようになった。地元シンシナティ出身のこの若い選手は、そのニックネームの通り常に全力でプレーするのでたちまち人気者となり、この年に新人王となった。この選手はただ全力でプレーする打者ではなかった。やがてこの22歳の若者ピート・ローズは安打製造機となって首位打者となり、ヒーローとなり、レッズの監督となり、そして多くのファンを悲しませるほどの大きなスキャンダルの主人公となった。
このピート・ローズに二塁手のポジションを取られたドン・ブラッシンゲームは、その後1967年に南海ホークスに入団、3年間選手としてプレーした後に、そのまま請われて南海のコーチとなった。選手時代に同僚だった野村克也に大きな影響を与え、野村も彼を高く評価して、彼の野球に対する考え方や野球理論・知識(シンキング・ベースボール)を選手に広めていった。日本では「ドン・ブレイザー」と名乗り、1979~1980年に阪神タイガースの監督となり、1981年から1982年に南海ホークスの監督を務めた。
- この年からストライクゾーンが拡大されて、従来のゾーンの上限が「脇の下から」が「肩から」に変更された。この変更は投高打低を加速させて1968年に30数年ぶりに30勝投手の出現と首位打者の打率が.301という1901年以降では最低記録を生み出した。
- 5月11日、ドジャースのサンディ・コーファックスが、対ジャイアンツ戦でノーヒットノーランを達成した。コーファックスは前年も対メッツ戦でノーヒットノーランを達成しており、以降翌1964年も、次の1965年も達成し4年連続達成することになる。
- 6月15日、ジャイアンツのフアン・マリシャルが、対コルト45's戦でノーヒットノーランを達成した。
- 7月13日、アーリー・ウィンが史上14人目となる通算300勝を達成した。ワシントン・セネタースからクリーブランド・インディアンスに移り、さらにシカゴ・ホワイトソックスに移って、最後のこの年にインディアンスに戻って最後の1勝で通算300勝に届いた。その間最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振2回に輝き、サイヤング賞にも1回選ばれた。20勝を上げた年にはインディアンスでもホワイトソックスでもリーグ優勝したがシリーズ制覇はならなかった。(1972年殿堂入り)
10/2 – |
ドジャース |
5 |
- |
2 |
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ヤンキース
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10/3 – |
ドジャース |
4 |
- |
1 |
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ヤンキース
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10/5 – |
ヤンキース |
0 |
- |
1 |
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ドジャース
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10/6 – |
ヤンキース |
1 |
- |
2 |
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ドジャース
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- MVP:サンディ・コーファックス (LAD)
ベテランズ委員会選出
- 『アメリカ・プロ野球史』第7章 拡大と防衛の時代≪拡張の実現≫ 204P参照 鈴木武樹 著 1971年9月発行 三一書房
- 『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪1963年≫ 122P参照 週刊ベースボール 1978年6月25日増刊号 ベースボールマガジン社
- 『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説』 1905-2000(1963年) 107P参照 上田龍 著 2001年10月発行 ベースボールマガジン社
- 『誇り高き大リーガー』≪スタン・ミュージアル≫72-73P参照 八木一郎著 1977年9月発行 講談社
- 『メジャー・リーグ球団史』≪ロサンゼルス・ドジャース≫ 295P参照 出野哲也 著 2018年5月30日発行 言視社
- 『メジャー・リーグ球団史』≪セントルイス・カージナルス≫ 505-506P参照
- 『メジャー・リーグ球団史』≪シンシナチ・レッズ≫ 157P参照
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