ザ・JBズ(The J.B.'s, 時としてThe JB'sやThe J.B.sのように表記されることもある)は1970年代前半のジェームス・ブラウンのバンド。レコードではJames Brown Soul Train、Maceo and the Macks、A.A.B.B.といった、別名での録音盤も存在する。ジェームス・ブラウン以外にも、ボビー・バードやリン・コリンズ、ヴィッキー・アンダーソンらのジェームス・ブラウン・ファミリーの歌手のバックを務めたり、グループ自身の名義での活動を行うこともあった。
JBズはブラウンの旧バンドの殆どのメンバーが賃金ストライキを起こした後の1970年3月に結成された(ブラウンの1950年代と1960年代の旧バンドはザ・ジェームス・ブラウン・バンドやザ・ジェームス・ブラウン・オーケストラとして知られていた)。JBズの初期メンバーには無名のファンクバンドであるザ・ペースメーカーズ出身のベース奏者ウィリアム“ブーツィ”コリンズとその兄でギター奏者のフェルプス“キャットフィッシュ”コリンズの兄弟、60年代のブラウンのバンドから残ったボビー・バード(オルガン)とジョン“ジャボ”スタークス(ドラム)、経験の浅い3人のホーン奏者クレイトン“チキン”ガンネルズ、ダリル“ハサン”ジャミソンとロバート・マコラフ、コンガ奏者のジョニー・グリッグズがいた[1]。
この代のJBズは、「セックス・マシーン」、"Super Bad"、"Soul Power"や "Talkin' Loud and Sayin' Nothing" といったブラウンの最も強烈なファンク録音の幾つかで演奏した[1]。またブラウンのヨーロッパツアーにも同行し(ずっと後になってリリースされるライブアルバム Love Power Peaceをツアー中に録音)、更には2枚組LPの『Sex Machine』を録音、好んでサンプリングされる"The Grunt"と"These Are the J.B.'s"の2枚のインストシングル盤をリリースした。
1970年12月、トロンボーン奏者のフレッド・ウェズリーがJBズのリーダーとなるためにジェームス・ブラウンの組織に戻る。やがてウェズリーに従いメイシオ・パーカーやセント・クレア・ピンクニーといった他のブラウンの元サイドマンたちが復帰すると、コリンズ兄弟[2]や他の「オリジナル」JBズはブラウンのもとを離れてジョージ・クリントンのPファンク共同体に合流する。その後はJBズのライナップは頻繁に入れ替わり、1976年、77年はアルバムがリリースされなかった。1978年にJBズは復活アルバムを発表している。
この年代のブラウンのステージとレコードでのバックを務めた以外にも、JBズは自身のアルバムやシングルを録音した。1970年代前半には"Pass the Peas"や"Gimme Some More"などの後年の人気曲を録音し、"Doing It to Death"はR&Bチャートでヒットしている。「フレッド・ウェズリー&ザ・JBズ」名義での"Doing It to Death"は100万枚を売り上げ、1973年7月にRIAAからゴールドディスクが与えられた。[3]
1974年の"Breakin' Bread"は個性的なアルバムで、殆どの曲の冒頭で録音されたバッキングトラックに、フレッド・ウェズリーが語る回想がオーバーダブされている。これは"Doing It to Death"に見られるジェームス・ブラウンのリアルタイム録音主体のスタイルと対局をなしている。1974年のフレッド・ウェズリー&ザ・JBズのアルバム "Damn Right I Am Somebody"[4]には、ブラウンの語りも入っている。ほとんどのJBズの録音はブラウンによりプロデュースされ、多くはブラウン自身のレーベルである、ピープル・レコードからリリースされた。音楽としてのファンクは、1970年代半ば以降に、ディスコに主流の座を奪われ、音楽としての勢いを失っていった。ファンクの復活は、ディスコ・ブームが終焉した1980年代まで待たなければならなかった。
A.A.B.B.名義では、グループは1975年のアメリカチャートで108位を記録する"Pick up the Pieces One By One"をリリースしている。[5] その名前は当時人気のファンクグループアヴェレージ・ホワイト・バンドに因んだ"Above Average Black Band"の略である。[5]
多くのジェームス・ブラウンの音楽同様に、JBズの録音はラッパーやヒップホップDJによて発掘された。1980年代から1990年代にかけて、メイシオ・パーカーとフレッド・ウェズリーはアルフレッド“ピー・ウィー”エリスといった元ブラウンのサイドマンたちをひきつれて”ザ・JBホーンズ”名義で継続的にツアーを行っている。JBホーンズはグラマビジョンレーベルに数枚のアルバムを録音し、後にライノレコードより再発されている。また同名義でジェフ・マクレイとリチャード・マズダのプロデュースによるアルバム"I Like It Like That"を残している。
フレッド・ウェズリー、ブーツィ―・コリンズ、ピー・ウィー・エリス、ボビー・バードとクライド・スタブルフィールドを含む形態でのJBズがセント・クレア・ピンクニーへの追悼として1999年に「再結成」アルバム"Bring the Funk on Down"を録音している。このアルバムはPヴァイン・レコードから日本でリリースされ、2002年にインスティンクトレコードよりアメリカで再リリースされた。