JDスター女子プロレス(ジェー・ディー・スターじょしプロレス)は、かつて存在した日本の女子プロレス団体。
ジャンヌ・ダルクの頭文字の「J」と「D」からとられている。
吉本興業が中国進出を計画した際に言葉の壁から今までの芸人による興行形態では進出は難しいと判断して言葉を必要としないスポーツからアピールすることを思い付き当時ブームが沸き起こっていた女子プロレスに目を付けて吉本女子プロレスJd'(よしもとじょしプロレス・ジェー・ディー)の設立を計画。有限会社として設立に際しては吉本興業のほかテレテック、バンプレスト、旭通信社が協力[1]。代表に卯木基雄(元ラジオ大阪社員)が就任。
他団体との軋轢を回避するためにあえて引き抜き等の手段を使わず当時、全日本女子プロレスにフリーとして参戦していたジャガー横田とバイソン木村を全日本女子の了解を得た上で移籍させて全日本女子を退団、引退していた白鳥智香子と李由紀を加えた4人を所属選手として契約。また同じく全日本女子に参戦していたライオネス飛鳥をフリーとして招聘。さらに全日本女子を引退していた神谷美織が覆面レスラー「Cooga」としてカムバックして後の選手は新人から育成することで陣容を整える[2]。
1995年12月24日、ベイサイドジェニーでプレ旗揚げ戦を開催。ゲストに西川きよしを来場させてマスコミに対してアピールを行った。旗揚げ前の様子を特番としてテレビ放送するなど大掛かりな展開を図っている。
1996年4月14日、ヴェルファーレで旗揚げ戦を開催。メインイベントに週刊プロレス提供試合としてバイソン木村対豊田真奈美戦を行う(これに関しては、この試合をきっかけに週刊プロレスと組み色々と行う企画があったが諸事情によりうやむやとなり、これ1回のみで終了してしまう)。旗揚げ当初は覆面コミッショナーとして桂三枝を起用[3]。
この苦しい状況を打破するために「新世紀スター誕生 アクション・シンデレラ・オーディション」を開催。オーディションに合格した際には2年間限定でプロレスを行い、その後、アクション女優として吉本がバックアップすると言う企画で、これが後のアストレス(アスリートとアクトレスを合わせた造語)となる(ただし、デビューして2年以上経過した現在でもプロレスを続けている選手もおり、アクション女優として大成した女子プロレスラーもいないため、「アクション女優の育成」と言うテーマは成功したとは言い難いが、それまでとは違う女子プロレスラー像を作ろうとしたことは一部では評価されている[誰によって?])。
苦しい経営が続く中で大手商社による資金面によるテコ入れなどがあったものの女子プロレスブームは終焉を迎えていた。
2003年3月、吉本が資本撤退して経営権をJオフィスグループに譲渡。4月、団体名をJDスター女子プロレス(ジェー・ディー・スターじょしプロレス)に改称して吉本はプロレス経営から退くことになった。経営者が変わったものの苦しい経営は続いていた。
2004年4月29日、後楽園ホール大会の全試合終了後、女子プロレス団体としての活動終了してアストレスを中心とする女子プロレスプロモーションへの移行を発表。その後、フリー、他団体の選手を招いた興行「格闘美」と元所属選手を中心に実力派フリー選手に主眼を置いた興行「EXPERT」を交互に開催したが「EXPERT」は失敗して「格闘美」に集約された。
2005年9月、メジャー女子プロレスAtoZとの業務提携を発表。
2006年1月、AtoZとの業務提携を解消。
2007年7月16日、後楽園ホール大会を最後に解散。解散時の運営はジェイディー・スターが引き受けた。
2000年、ライオネス飛鳥が発案してタイトルマッチなどで採用されていた。「LSD」は「Long Strong Distance」の略。