R-Z
ポリカルポフ R-Zは1930年代のソ連の偵察爆撃機であり、1935年から1937年にかけて大量生産されたポリカルポフ R-5の改良型だった。R-Zはスペイン内戦や冬戦争、ノモンハン事件の戦闘で使用された。
R-Z または R-Zet はモスクワのGAZ No 1で、ソ連空軍の標準的な軽爆撃機だったポリカルポフ R-5の改良型、また代替として開発された。R-5の派生型の中で最も先進的だったR-5SSSを基にしたR-Zは新たな、より深いモノコック式の胴体と、操縦士用のスライド式キャノピー、観測員用の窓のついたフェアリングを備えていた。544 kW (730 hp) M-17F エンジン(BMW VIのライセンス生産品)は 611 kW (820 hp) M-34 エンジンに変更された。R-Zは1935年1月に初飛行し、[1] 同じくR-5の派生的なコチェリギン LRとの競争に勝利し、ソ連空軍に採用された。生産の終了した1937年の春までに1,031機のR-Zが製造された。[1]
前任のR-5と同様に、R-Zは多くの数がソ連空軍とアエロフロートで使用された。
R-Zが初めて戦闘に使用されたのは1937年から始まったスペイン内戦だった。61機のR-Zがスペイン共和国空軍に届けられ、[2] そこで「ナターシャ」というあだ名をつけられた。[3] R-Zは頻繁に使用され、戦闘機の攻撃から身を守るために密集隊形で飛行し、また防御砲火で相互に連携する一方、帰還の際は個別に低空飛行した。[2] 多くのR-Zは地上砲火により損害を受け、特に第30飛行集団第2中隊は1938年12月24日の一日だけで所有する60機のうち9機を失ったが、[4] 完全な損失は比較的少なかった。[5] 1939年の終戦時には残存していた36機がナショナリスト側に捕獲された。[6]
R-Zはソ連空軍によって1939年のノモンハン事件において日本に対して使用され、同年の冬戦争においてフィンランドに対して使用された。[1] 1941年6月のドイツによるソ連侵攻の頃にはR-Zはイリューシン Il-2に更新される途中だったが、かなりの数の軽爆撃機連隊で運用が続けられていた。
出典: The Osprey Encyclopedia of Russian Aircraft from 1875 - 1995 [1]
諸元
性能
武装
関連機
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