TRS-80 Model I と拡張インタフェース | |
種別 | ホームコンピュータ |
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発売日 | 1977年8月3日[1] |
販売終了日 | 1981年1月 |
CPU | Zilog Z80 @ 1.78 MHz |
メモリ | 4 KB(最大 48 KB) |
TRS-80は、1970年代終盤から1980年代初めにタンディ・コーポレーションが製造し、同社が経営する家電量販店のラジオシャックにて販売したザイログZ80ベースのマイクロコンピューターの機種・シリーズ名、およびそれらZ80搭載機と互換性を持たない幾つかの家庭用コンピューターを包括したブランド名である。当初「TRS-80」は単一の機種・シリーズ名であったが、のちにタンディ・コーポレーションから発売されたあらゆる家庭向けコンピュータが「TRS-80」の名で発売されたため、「TRS-80」は単一の機種・シリーズ名としての意味合いのみならず、タンディーのコンピューター・ブランドとしての意味合いを持つようになった。[2]
なお、単に「TRS-80」と表記した場合、一般には1977年発売の"Model I"と、それと後方互換性を持つザイログZ80プロセッサー搭載の家庭向け後継機種"Model III"と"Model 4"を指すことが多い。[3]
TRS-80シリーズの初期型は1977年11月に出荷開始、同年12月の第三週には各店舗に展開された。この機種はQWERTY配列のフルストロークのキーボードを備え、小型であり、浮動小数点数をサポートしたBASICプログラミング言語を内蔵し、モニターが付属した。価格は599ドルで、モニターとテープレコーダーが付属しない399ドルの廉価版も存在した[1]。なお、リリース前の予約価格は500ドルで、事前に手付金(デポジット)として50ドルを渡しておき、商品受け渡し時に手付金を返還する方式で予約販売された。この機種は当初は単に"TRS-80"と呼称されていたが、後年(1979年)発売されたビジネス用途で互換性のない"Model II"と区別するため、"Model I"と呼称されるようになった。
この"Model I"はホビイスト・一般家庭・スモールビジネス分野で人気となり、バイト誌に "1977 Trinity"(Apple、コモドール、タンディの3社)、すなわち「パソコン御三家」の一角と呼ばれるうちの最上位となった。1979年時点で、TRS-80は米国のマイクロコンピューターの中でもっとも多くのソフトウェアが供給されており、[4] また1982年時点でTRS-80シリーズの販売数はアップル社のApple IIシリーズの5倍に達していた。[5] [6]
TRS-80がこれだけの販売数を達成できた背景として、全世界3000店以上のラジオシャック店を通してコンピュータが販売され、アップグレードや修理などのサポートを受け付けていたということがある[7]。しかし、"Model 1"が小文字をサポートしていなかったことやデータ保存・拡張周りの仕様が複雑であったことは、本格的なビジネスユースに適さないとされ、タンディー社にビジネス向け後継機の開発を急がせた。
さらに、"Model 1"には非常に電波干渉(RFI)が強いという欠陥が存在し(AMラジオをコンピュータの隣に置いて電波干渉をゲームの効果音に使うことがあったほどである[8])、FCCが電波干渉についての規制を厳しくしたことで"Model I"の継続販売は不可能となった。そこで、タンディー社は"Model I"の代替として一部互換性を持つ"Model III"をリリースすることとなった。 "Model III"は"Model I"と後方互換性を有していたが、それは先述の通り「一部互換性」であったため、"Model I"用のソフトウェアのうちおよそ80%(数値はタンディー社の主張による)のものしか正常に動作しなかった。そのため、一部の開発者・ソフトメーカーは"Model I"専用のソフトウェアを"Model III"に対応させるためのパッチの配布を行った。[9]
タンディーはさらに、"Model III"と完全な後方互換性を持つ改良型の"Model 4"をリリースすることとなった[10]。
"TRS-80 Model I"が大きな成功を収めたことで、タンディー社は"Model 1"と互換性を持たず、技術的なつながりが全くないコンピューターにも"TRS-80"のブランド名を付けて販売するようになった。例えば1979年発売の"TRS-80 Model II"はCPUこそ"Model I"と同じZ80であったが、ディスク・フォーマットとシステム・アーキテクチャが異なったため互換性はなかった。"TRS-80 Model 2000"、"TRS-80 Model 100"、"TRS-80 Color Computer"、"TRS-80 Pocket Computer"などの機種も、オリジナルの"Model I"およびその後継機の"III・4"との互換性は全くなく、ハードウェアの種類もポータブルコンピュータやポケットコンピュータなど様々なバリエーションがある。
1970年代中ごろ、ラジオシャックはアメリカでも成功している電器店チェーンだった。同社の仕入れ担当だったドン・フレンチはコンピュータキットのMITS Altair を買い、その後自分でもコンピュータの設計を行い、製造担当副社長ジョン・V・ローチにそれを見せた。ローチは感銘を受けなかったが、ラジオシャックはナショナル セミコンダクターのスティーブ・レイニンガーを雇い、フレンチの設計を評価させ、1976年6月にコンピュータ開発に取り組むことになった。同社はキットでの販売を考えていたが、初期のコンピュータショップである Byte Shop で働いたこともあるレイニンガーは「はんだ付けできる人は非常に少ない」と主張して説得にあたり、組み立て済みのコンピュータを販売することを勧めた[11][12]。
社内にはマイクロコンピュータの発売に反対する声もあったが、一時期ラジオシャックの売り上げの20%以上をたたき出していた市民ラジオの人気にかげりが出てきたため、同社は新製品を探していた。1976年12月、フレンチとレイニンガーは正式にプロジェクトを任されたが、コスト低減が至上命令とされた。例えば、小文字を扱えないようにすれば原価で1.50ドルの低減となり、売値では5ドルの低減になる。1977年2月、ラジオシャックの親会社であるタンディの社長チャールズ・タンディに、完成したばかりのプロトタイプで単純な税務会計プログラムを動作させて見せた。しかし、タンディが自分の給料の額である15万ドルという数字を入力すると、オーバーフローが起きてプログラムがクラッシュしてしまった。そこで2人は Tiny BASIC に浮動小数点数計算機能を追加した。フレンチは5万台の売り上げが可能だとしたが、懐疑的な重役たちは199ドルの価格でせいぜい年間1,000台から3,000台の売り上げだと見積もった。ローチはタンディを説得し、3,500台の製造で合意をとりつけた。これはラジオシャックの店舗数にほぼ等しく、もし売れなかったとしても各店舗の棚卸し業務などに流用できると考えた末の数字だった[11][12][13][4][14]。
1977年8月3日、ニューヨークでの記者会見で TRS-80 が発表された。価格は399ドルで、12インチモニターとラジオシャック製テープレコーダを流用したデータレコーダを含めると599ドルとされた。それまでラジオシャックが販売していた最も高額な商品は500ドルのステレオだった。ラジオシャックは、これをきっかけにより高額な商品を扱うようになり、消費者が抱いている「安っぽい」というイメージを打破したいと考えていた。主要ターゲット市場はスモールビジネスで、次いで教育市場、そして一般消費者やホビーストという優先順位だった。実際にはホビーストが主な顧客となったわけだが、ラジオシャックはホビーストを相手にすることがビジネスの主流になるとは考えていなかった。記者会見と同じ日にニューヨークでテロリストによる爆弾さわぎがあり、TRS-80の発表はあまり注目を集めなかったが、TRS-80について問い合わせる6袋ぶんの手紙が届き、1万5千人からTRS-80を買いたいという電話が殺到して、交換機が麻痺する事態となった。ライバルのコモドールは PET 2001 を数カ月前に発表していたが、まだ出荷できていなかった。ラジオシャックは同年9月には出荷を開始した。年間売り上げ予想は3,000台だったが、最初の1カ月半で10,000台を売り上げ、最終的には20万台以上を売り上げることになった[11][15][12][13][4][14][16]:4[17]。
1981年、ローチがタンディのCEOに就任し、レイニンガーは同社の戦略計画ディレクターとなり、フレンチはソフトウェア会社を起業した。コンピュータを製造販売するようになってもラジオシャックのイメージは変わらず、"Trash-80" などと呼ばれたりもしたが、1984年には総売り上げの35%がコンピュータとなり、タンディ・ラジオシャック・コンピュータセンターを500店舗立ち上げた[11][13][18][19]。
Model I は分厚いキーボードのような形状である。写真の中で、手前にあるキーボード部分が本体で、VIC-1001と似ている。なお、電源ユニット(ACアダプタ)は本体に内蔵されていない。モニターが載っている筐体は別売のI/O拡張ユニットである。CPUにはZ80マイクロプロセッサを使用し、1.77MHzで駆動していた。当初の搭載RAMは4Kバイトだったが、後に16Kバイトになっている[12]。Z80の高速版Z80Aが登場するとそちらに切り換えている。旧モデルユーザーの間ではCPUを換装し、クロックを高速化するといった改造が流行った。
ROM で内蔵されたBASIC言語にはふたつのバージョンがある。Level I BASIC は 4KバイトのROMに格納可能で、Level II BASIC は 12KバイトのROMに格納可能だった。Level I は単精度浮動小数点演算のみでコマンドも少ない。一方、Level II は倍精度浮動小数点演算をサポートしコマンドも豊富だった。Level II には後にディスク機能も追加され、Disk BASIC をロード可能である[12]。
Level I BASIC はフリーな Tiny BASIC をラジオシャックでTRS-80に移植し機能追加したものである[14]。非常に素晴らしいマニュアルが付属したことで注目された。文字列変数は A$ と B$ の2つのみ、数値変数は A から Z までの26個、配列は A() の1つだけである。SIN()、COS()、TAN() といった関数のコードはROMには含まれていないが、マニュアルの最後に掲載されていた。エラーメッセージとしては、シンタックスエラー、ゼロ除算などの演算エラーに対する "WHAT?"、メモリ範囲外エラーに対する "SORRY" がある。
Level I BASIC はトークン化を行わないので、予約語はそのまま格納される。メモリに格納できるコード量を最大化するため、予約語の省略形を使うことができる。例えば、"PRINT" を "P." と書くことで3バイト節約できる。
Level II BASIC はマイクロソフトからライセンス提供を受けており、ROMは最大12KBだったので、16Kバイトの拡張BASICを機能縮小した。マニュアルは Level I BASIC ほどわかりやすいものではなかった。Level I BASIC から Level II BASIC への換装は199ドルでラジオシャックが行った。カセットテープに保存した Level I BASIC のプログラムは、Level II BASIC で使用する前に変換する必要がある。そのためのユーティリティが Level II のROMに内蔵されている。
Disk BASIC はディスクI/Oが可能で、場合によっては強力なソート、検索、フルスクリーン編集などの機能も使える。Level II BASIC 動作状態で Disk BASIC 用コマンドを使おうとすると "?L3 ERROR" と表示することがある。
マイクロソフトはカセットテープを媒体とした拡張BASICである Level III BASIC を発売した。これは、16KB版BASICの全機能をほぼカバーしたものである。
また標準搭載のBASIC以外に、プログラム・ツールとしてタンディはマクロ・アセンブラ、マシン語エディタ(TBUG)などを販売していた。
スクリーンエディタ機能を持つ N-BASIC, F-BASICなど後年に出てきたBASICと異なり、TRS-80では、BASICのプログラム編集にラインエディタが使用された。特定の行番号の特定の文字を変更したい場合は、該当の行番号を持つ行を表示した後、スペースキー押下によってカーソルを右方向に移動させ、該当の文字に到達したところで大文字のCを入力し、新しい文字を入力することで文字の置換が行われた。
TRS-80には無料でブラックジャックとバックギャモンが同梱されていた。また、ラジオシャックから給与計算、家計簿、教育ソフトなどがカセットで発売された[12][16]:3。パックマンやギャラクシアンといったアーケードゲームを無許可で移植し販売する個人プログラマや企業が多数存在した。アドベンチャーゲームのゾークなどは、他のホームコンピュータから移植された。TRS-80発祥のゲームも Cosmic Fighter、Defence Command など多数存在する。Dancing Demon はゲームというよりも実験的なエンターテインメントソフトである。
オフィス用アプリケーションとしては、VisiCalcなどの表計算ソフト、Electric PencilやScripsitといったワープロソフトがある。
TRS-DOSベースの電子掲示板システムとして On-Line 80 BBS が開発された。
TRS-DOSはOSとして貧弱だったため、代替OS市場が生まれた。NewDOS、DoubleDOS、DOSPlus、LDOS、NEWDOS/80、UltraDOS(Multidos)、VTOS などがある。
Z80を使ったマシンでは、ビジネス用途の標準OSとしてCP/Mが普及し、TRS-80も同様である。しかし、Model I はビデオメモリの配置に問題があり、CP/Mがほとんど役に立たなかった。つまり、CP/M用ソフトウェアを Model I で動作させるには修正が必要だった。
日本では、当時国内に点在したラジオシャックチェーンと、全国の特約店で販売された。カナCPUモデルは1979年6月25日発売。
日本で販売されたモデルは、当初は付属の電源ユニットをAC100Vに変更したのみであったが、後にカタカナ(とアルファベット小文字)に対応したカナCPUモデルが販売された。キーボードがカナ配列に変更されており、Enterキーの大きさを半分にして「¥」キーを増設している。また右Shiftキーをカナ切り替えキーに変更して、Shiftキーが左側のみになっている。ファームウェアやBASICインタプリタの違いによる互換性の問題があり、特にマシン語プログラムは、そのままでは動かないケースが殆どだった。
モニタとのセット販売のみで、標準ディスプレイとグリーンディスプレイの2モデルが用意された。価格はグリーンディスプレイの方が2万円高かった。既存モデルをカナCPUモデルにコンバージョンするサービス(CPUボードとキーボードの交換)も提供された。
ソフトウェアでは、カナCPUに対応したアセンブラやDOS、カナ文字対応の在庫管理ソフトなどが発売された。
ティアックからは、互換機のPS-80(データレコーダ標準搭載)やPS-85(FDD標準搭載)が発売された。
Model I には様々なクローンが生まれた。Lobo Max-80、LNW-80 Models I/II、ドイツ製でCP/Mにも対応している Aster CT-80 などがある。各社 Model III での改良を先取りしており、拡張インタフェースのクローン版も発売している。
香港のEACAも Model I クローンを開発し、様々な名称で世界中で販売した。オーストラリアとニュージーランドでは Dick Smith System-80、北米では PMC-80 および PMC-81、ハンガリーでは HT-1080Z、南アフリカでは TRZ-80、西ヨーロッパでは Video Genie として販売している。拡張バスはTRS-80とは異なり、EACAも独自の拡張インタフェースを発売している。いくつかのバージョンがあり、後にホーム版とビジネス版に分けられ、後者はカセットレコーダーを内蔵する代わりにテンキーを装備していた。EACAは TRS-80 Model I をベースとした Colour Genie も発売した。こちらはグラフィックス機能などが改良されており、互換性が完全ではなくなっている。
ブラジルでは、いくつかの業者が Model I/III/IV のクローンを開発した。Dismac series D8000/D8001/D8002(いずれも Model I クローン)は南米で初めて量産されたパーソナルコンピュータである。Digitus の DGT-100 と DGT-1000、Prologica の CP300 と CP500(これらは Model III クローン)、Sysdata Eletrônica Ltda. の Sysdata Jr などがある。Prologica は TRS-80 Color Computer のクローン CP400 / CP 400II も作っている(外見は Timex Sinclair 2068 に似ている)。
ドイツでは S.C.S. GmbH が Model I クローンの Komtek-I を発売した。
ソ連では TRS-80 のアイデアを借用して Corvette (Корвет) という教育用コンピュータを開発した。
Tandy 10 は机の形状をしたコンピュータで、1978年にリリースされたが間もなく販売中止となった。
1979年10月、スモールビジネス市場向けに Model II を出荷開始した。1984年、Creative Computing 誌はこれを「最先端のビジネスマシン」と呼び、「ラジオシャックのブランドでなかったらビジネス市場を席巻していたかもしれない」と評した[13]。
Model II は Model I の上位互換ではなく、全く違ったシステムである。ビジネス専用マシンとして最先端のハードウェアを使い、DMA、ベクトル化された割り込み、取り外し可能なキーボード、メモリマップドI/OではなくポートマップドI/Oを採用するなど、Model I にはなかった様々な機能を備えている。80×25のテキスト表示をサポートし、8インチFDD(片面500KB)、32KBか64KBのRAM、RS-232×2ポート、セントロニクス・パラレルポートを備えている。ビデオメモリはCPUからは直接アクセスせず、レジスタ経由でのみアクセスする。ブートローダ以外のBIOS機能をROMに搭載していない(BIOS機能はブートフロッピーからロードされる)。BIOSがROM上になく、ポートI/Oを採用しているため、アドレス空間のほとんどをソフトウェアが使用できる。TRSDOSとBASICが動作する。TRSDOSは Model I 用と互換性がない。そのため Model I ほどアプリケーションが揃わなかった。逆にサードパーティからリリースされたCP/Mは問題なく動作した。拡張スロットが3つあり、追加のシリアルポート用カードやビットマップ・グラフィックス用カードなどが登場した。
タンディは Model II 専用の机を370ドルで発売した。これには追加の8インチFDDを3台と8.4MBのHDDを4台まで搭載できる。
1982年、Model II の後継として Model 12 が登場した。ハーフハイトの両面FDDを採用し、Model II のほとんどの回路を1枚のメイン基板で実装している[22]。ビデオとキーボードのカードがメイン基板のスロットに挿入されている。拡張カード用筐体が別に用意されていた。Model 12 は、後述する Model 16B からモトローラ製プロセッサを除いたもので、Model 16B へのアップグレードが可能となっている。
1980年7月、タンディは Model III をリリースした。Model I の後継機として、小文字表示が可能となり、キーボードが改良され、カセットインタフェースが1500ボーとなり、Z80プロセッサが(2.03MHzに)高速化されている。なお、Model I は FCC の新たな電波干渉防止規格(1981年1月から施行)に適合していなかったこともあって、間もなく販売終了となった[15][20][23]。
Model III は Model I の完全上位互換ではなく、80%のソフトウェアしか動作しなかった。しかもディスクフォーマットが非互換だった[15]。BASICとTRSDOSにもバグが多かった[24]。オプションでディスクドライブを内蔵可能である。電源は本体やディスプレイと共通であるため、ディスクにアクセスするたびに画面の表示が目に見えて小さくなるという現象が発生した。
1983年4月、Model III の後継として Model 4(アラビア数字で表記するようになった)がリリースされ、CP/Mを正式にサポートするようになった。
従来のモデルでは BASIC ROM をハード的に細工して 0番地以外に移動させないと CP/M を動作させることはできなかった。そのため、サードパーティが CP/M サポートのためのアドオンボードを販売していた。あるいは、CP/M自体を修正してゼロ番地以外で動作できるようにしていたが、その場合はアプリケーションも修正が必要である。Model 4 では80×24文字の表示モードがCP/M用に追加されている。
Model 4 に同梱された TRSDOS 6 は Logical Systems の LDOS を拡張したもので、従来のTRSDOSよりずっと強力である。TRSDOS 6 を立ち上げると80×24文字表示モードとなり、64KBの全メモリ空間にRAMがマッピングされる。Model III 用OSディスクを使えば、Model 4 で Model III のソフトウェアを実行可能であり、その場合は64×16文字表示となり、ROMがゼロ番地からマッピングされる。
Model 4 でオプションのカードを使えば、640×240または512×192の高解像度モノクログラフィックスが可能である。派生モデルとして、持ち運び可能で小型のミシンのような形状をした Model 4P が1983年にリリースされた。
初期の Model 4 の基板にはZ8000という16ビットCPUを搭載できるようになっていたが、そのためのオプションがリリースされることはなかった。
TRS-80 Model 16 は、Model II の後継としてリリースされたもので、Model II をアップグレードするキットも発売されていた。Model 16 は16ビットのMC68000 (6MHz) とメモリを搭載したカードを挿入し、Z80をI/Oプロセッサとして使うようになっている。8インチ両面FDDを2台搭載している。TRSDOS-16またはXENIXが動作する。TRSDOS-16は従来のTRSDOSにMC68000対応を加えただけであり、MC68000用のコードはZ80との共有メモリウィンドウを通してMC68000カード上のメモリにロードされ、実行される。
XENIXは UNIX System III の全機能を提供しており、マルチユーザーもサポートしている。XENIXの方が人気となり、ビジネス用途の各種アプリケーションが移植された。タンディもマルチユーザー対応のワープロソフト Scripsit 16、表計算ソフト Multiplan、データベースソフト Profile 16(後に filePro 16+ にアップグレード)、会計ソフトなどをリリースした。言語としては、COBOL、BASIC、C言語が用意された。RDBMSの Unify や Informix もリリースされている。このXENIXはマスタースレーブ型の実装になっており、入出力はZ80で行い、それ以外の処理は68000で行うようになっていた。
Model 16 の後継が Model 16B で、さらに Tandy 6000 HD が登場した。HDDを内蔵し、MC68000も8MHzに高速化されている。外付けHDDとして、8.4MB、15MB、35MB、70MB の装置を発売し、RAMは最大768KBまで搭載可能。RS-232ポートを6本追加でき、端末を接続してマルチユーザーシステムを構築できる。
この項目では、「TRS-80」のブランド名の下で発売されたものの、オリジナルのTRS-80 Model Iと異なったハードウェア構成で互換性を持たない機種について記述している。
TRS-80 Color Computer (CoCo) は明確にホーム市場を志向したマシンである。コモドールVIC-20に対抗することを目的に市場投入され、コモドール64や Apple II、Atari 8ビット・コンピュータと直接競合した。OSとしてはOS-9が動作した。 機種名こそ「TRS-80」の名を冠した本機であるが、CPUにMC6809を用いており、ザイログZ80ベースのTRS-80オリジナル・モデルとは全く異なったハードウェア構成となっている。改良型として1983年発売のColor Computer 2、86年発売のColor Computer 3が存在した。 [25]
世界初のラップトップ型コンピュータのひとつである。TRS-80 Model 100、Tandy 102、Tandy 200、Tandy 600 といった機種がある。日本の京セラが設計し、マイクロソフトがソフトウェアを開発した。このシリーズはモデムを備えていて、BASICやテキストエディタを内蔵している[26]。音響カプラを使えばどこからでもファイルを転送できるため、ジャーナリストに愛用者が多かった。
1984年に登場した Tandy 200 は Model 100 の上位機種である。RAMは24KBから72KBまで拡張可能で、40×16文字表示の液晶ディスプレイを備え、表計算ソフト (Multiplan) も内蔵している。
TRS-80 MC-10は短命に終わったコンピュータで、あまり知られていない。外見はシンクレア ZX81に似ている。
MC6803を使った小型のシステムで、RAMは4Kバイト。オプションで16KバイトRAMパックやサーマルプリンターが用意された。フランスでは若干手を加えた Matra Alice が発売されている。
カセットレコーダーでプログラムのセーブ/ロードを行う。CoCo とは互換性がないが、MC-10とCoCoを扱った雑誌が出版されていた。アプリケーションはほとんど発売されなかった。
TRS-80 ポケットコンピュータは、カシオやシャープのポケットコンピュータをTRS-80のブランド名で販売したもので、複数の機種がある。
1980年代前半、タンディはMS-DOSマシンの製造販売を開始した。MS-DOSが動作し一部アプリケーションも動作するが、IBM PC とは完全互換ではない。最初の製品として Tandy 2000 (1983) があり、それに Tandy 1000 (1984) が続いた。しかし市場の中心はMS-DOSマシンではなくPC/AT互換機へと移っていき、CPU速度もそれに伴い高速化していった。互換機の価格競争が始まるとタンディはそれに追随できなくなり、自前の製品を製造することをやめた。
また、Tandy 1000 はDECとの共同製造契約によるもので、DECも販売していた[27]。