U・ロイ | |
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出生名 | エワート・ベクフォード |
別名 | ダディ、ジ・オリジネーター、ナッティ・レベル、ゴッドファーザー |
生誕 | 1942年9月21日 |
出身地 | ジャマイカキングストン市ジョーンズタウン地区 |
死没 | 2021年2月17日(78歳没) |
ジャンル | レゲエ、ルーツ・ロック・レゲエ、ダンスホール・レゲエ |
職業 | DJ、サウンド・システム・オーナー |
活動期間 | 1961年 - |
レーベル | トロージャン、ヴァージン・レコード、ras他 |
共同作業者 | キング・ステレオグラフ |
U・ロイ(U-Roy、1942年9月21日 - 2021年2月17日)は、ジャマイカのレゲエディージェイ(以下「DJ」と表記)である。本名、エワート・ベクフォード(Ewert Beckford)。愛称はダディ、ジ・オリジネーター他。
世界で初めてヒットチャートの1位を獲得し、個人名義のシングル及びアルバムを発表したDJとして知られる。レゲエにおけるトースティング技法を完成させた一人であることから、しばしば「ラッパーの元祖」と評価される[1]。
1942年9月21日、キングストン、ジョーンズタウン地区に生まれる。 1961年頃、ドクター・ディッキーズ・ダイナマイト・サウンドシステムでDJとしての活動を開始する。もっとも、初期の活動はレコード運びなど裏方的なものであったようで、本格的な活動は1965年頃にサー・ジョージ・ジ・アトミック・サウンドでマイクを握り始めてからであった[1]。1968年頃、サー・コクソン・ザ・ダウンビート第二セットで活動しているところをキング・タビーによりスカウトされ、ホームタウン・ハイファイ・サウンド専属となった。ルイ・ジョーダンらのジャイブトークに影響を受けたU・ロイのトースティングは好評を博し、ダンスホールで人気を獲得していった[2]。このU・ロイ人気に目をつけた音楽プロデューサーたちは彼をレコーディングに参加させ始める。1969年、キース・ハドソンの下で録音された「ダイナミック・ファッション・ウェイ」は彼のデビュー曲であっただけではなく、世界初のDJによるレコードであった[3]。この曲はヒットには至らなかったが、当時のトップ・プロデューサーであったデューク・リードが1970年に録音し、発表された「ウェイク・ザ・タウン」と「ルール・ザ・ネーション」の2曲は立て続けに4万枚以上を売上げ[1]、RJRとJBCの二つのラジオ局のチャートで1位を獲得[3]。さらに数週間後に発表された「ウェア・ユー・トゥ・ザ・ボール」は12週間連続1位を記録する大きなヒットとなった[1]。この時期、彼はバニー・リー、リー・ペリー、ソニア・ポッティンジャー、フィル・プラット、ルーピー・エドワーズ、アルヴィン・GG・ラングリン、ロイド・デイリーといったプロデューサーの下でも多くの録音を残した。
それまでの合いの手(トーク・オーバー)的なトースティングではなく、曲の全編にわたってメッセージを押し出すU・ロイのDJスタイルは革新的であったため、I・ロイ、ニュー・ロイ(U・ブラウン)、U・ロイ・ジュニアら多くの模倣者(フォロワー)を生んだ。U・ロイ自身はそのことを快く思ってはいなかったようで、「Don't imitate because I originate(真似をするな。俺がオリジナル。)」という曲を発表したこともある。
U・ロイはリードの下で約30曲を録音し、1971年には世界初のDJによるアルバム『ヴァージョン・ギャロア』を発表した。1975年、ダリル・ホール&ジョン・オーツが彼らのアルバム『サラ・スマイル』においてU・ロイの「ソルダリング」をカバーしたことでU・ロイは国際的な注目を集め、ヴァージン・レコードと契約するに至った。同年ヴァージンから発表されたアルバム『ドレッド・イナ・バビロン』で彼はメジャー・デビューした。
その後、彼は自身のサウンド、キング・ステレオグラフ(キング・スター・ガフ)を立ち上げ、チャーリー・チャップリン、ジョジー・ウェイルズら後進DJを育成した。近年はキングストン郊外のワシントン・ガーデン地区に在住しているが、キング・ステレオグラフを運営し続けている[1]。
2007年10月15日にはDJという新たな音楽表現を開拓した功績を称えられ、ジャマイカ政府から名誉勲章 (Order of Distinction) の叙勲を受けた。
2006年と2008年に来日公演を行った。
2021年2月17日に死去。糖尿病、高血圧、腎臓の問題を抱えており、病院で手術を受けていたが、死因は公表されていない[4]。