経営再建のシンボルだったそごう心斎橋本店 | |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 |
大証1部(廃止) 8243 1961年 - 2000年10月13日 京証(廃止) 8243 1961年 - 2000年10月13日 神証 8243 (旧法人:株式会社そごう)1961年 - 1967年10月31日 |
本社所在地 |
日本 〒542-0085[注釈 2] 大阪府大阪市中央区心斎橋筋1丁目8番3号[注釈 1] |
設立 |
1969年(昭和44年)5月21日 (株式会社横浜そごう) 創業は1830年(天保元年) |
業種 | 小売業 |
法人番号 | 6010001127026 |
事業内容 | 百貨店 |
代表者 |
代表取締役社長 山下國夫 (元ミレニアムリテイリング取締役、西武百貨店出身) |
資本金 | 1100万円 |
売上高 | 4,689億94百万円(2006年(平成18年)2月期) |
従業員数 | 2,845名(2006年(平成18年)2月末現在) |
主要株主 | ミレニアムリテイリング 100% |
関係する人物 |
十合伊兵衛(創業者) 水島廣雄 和田繁明 |
外部リンク | https://www.sogo-seibu.jp/ |
特記事項:2009年(平成21年)7月31日時点の情報。2002年(平成14年)2月に株式会社横浜そごうが(初代)株式会社そごう(1919年12月30日設立)を吸収合併し(2代)株式会社そごうに商号変更。 2009年(平成21年)8月1日に株式会社西武百貨店、株式会社ミレニアムリテイリングと合併し、株式会社そごう・西武に商号変更。 |
株式会社そごう(英: Sogo Co., Ltd.)は、かつて百貨店の「そごう」を運営していた日本の企業である。セブン&アイグループに属していた。2009年8月1日に親会社であるミレニアムリテイリングと、同じくミレニアムリテイリング傘下の西武百貨店を合併し、そごう・西武となった。
本項では、1919年に設立され2002年に法人格が消滅した初代法人、旧商号が株式会社横浜そごうで2002年に初代法人を吸収合併した2代目法人について、まとめて記述する。各店舗についてはそごうの店舗一覧を参照。
1830年(天保元年)に大坂で古着屋として創業した老舗企業である。メインバンクの日本興業銀行(現在のみずほ銀行)出身の水島廣雄のもとで1960年代以降に多店舗展開戦略を推進して大手百貨店グループの一角にのし上がるが、バブル崩壊による経営悪化などにより2000年に経営破綻した。その後は西武百貨店の支援の下経営再建を行い、2003年に西武百貨店と共に持株会社「ミレニアムリテイニング」の傘下に入る形で経営統合する。最終的にミレニアムリテイリングがセブン&アイホールディングスの傘下に入ったことでセブン&アイグループ入りした後、2009年にミレニアムリテイニングと西武百貨店を吸収合併し、そごう・西武に社名を変更した。
「そごう」の社名・店名は創業者の名「十合(そごう)」に由来する。大阪が発祥の百貨店で、登記上の本店は創業から大阪店閉店までと心斎橋本店開店からそごう・西武への再編前まで、大阪の心斎橋に長年あった。それまで、大阪・心斎橋と神戸・三宮の2店舗しか有していなかったが、1957年に有楽町に東京店を開業し、「有楽町で逢いましょう」を宣伝文句に東京に進出した。同名の歌謡曲をはじめ歌番組や映画が制作され大流行となった。映画では大阪店・東京店が撮影に使用され、そごうが衣装提供も行った。
1967年に立ち上げた千葉そごうが成功し、「レインボーの法則」で国道16号沿いの首都圏の郊外の駅前を中心に出店を加速させた[1]。なお、それぞれを地域子会社として、早くから黒字化した株式会社千葉そごうが各地の地域子会社に出資する複雑な資本関係であった[1]。1985年に横浜駅東口に開業した横浜店は、そごうの店舗では売場面積(83,654m2)と売上高が最大で、現在でもそごう・西武の「基幹店」として営業している。最盛期には国内外で30店舗以上、1992年のグループ全体の売上高で三越や髙島屋を上回り、百貨店業界の1位を記録した[1]。なお、経営破綻以前の直営店は大阪店(心斎橋)、神戸店(三宮)、東京店(有楽町)の3店舗のみであり、その他の店舗は全て千葉そごうが出資した地域子会社であった。なお、水島廣雄が千葉そごうの株式の半数を有しており、実質的に水島廣雄が支配していた。
ロゴマークは創業以来、初代十合伊兵衛の生家・絹屋の家紋であるちきり(縦糸を巻くための織機の付属部品、石材や木材を繋ぎ止める部品)を丸で囲んだ「まるちきり」が使われている。また「ちきり」は「契り」に通じることから、顧客との結びつきを末長く大切にするという意味も含めている[注釈 3]。
ロゴマークの形状自体に変更はないが、色は赤→紺→金・翡翠と変更され、民事再生直後に原点回帰志向のもとで赤に、さらにミレニアムリテイリングのグループカラーの青に変更している。また民事再生以前には「そごう」と「SOGO」のロゴとが存在した。後者が後発で、前者も民事再生時点まで併用されていた。ロゴカラーが緑の時代には、続け字で右上がりの「Sogo」をCIに採用した時期もあり、外装への採用例として、1996年から2001年の神戸店(現:神戸阪急)本館北側の壁面がある。セブン&アイ傘下となってから、英字「SOGO」ロゴのフォントを西武の「SEIBU」と同一のものに変更し、主に公式ウェブサイトと広告で使用する。
イメージフラワーはダリアで、かつては包装紙や紙袋に印刷されたほか、関連組織の名称にも「ダリアルーム」「ダリア友の会」など、ダリアを冠したものがある。
かつては「人、街、世界をつなぐ、そごうネットワーク」というキャッチフレーズも存在した。
西武百貨店と統合したことで、マーチャンダイジングや売場編集が西武流となり、POSシステムの技術提供も受け、従来のイメージは大きく変わった。
大和国十市郡十市村で絹屋として商売を営んでいた十合徳兵衛の息子として生まれた十合伊兵衛(そごう いへえ)が、1830年(天保元年)に坐摩神社(火防陶器神社)の南隣、大坂上難波町に古手屋(古着屋)「大和屋」を開業したのが始まりである[2]。
1872年(明治5年)に古手屋を廃業して呉服店へ転換し、1876年(明治9年)に安堂寺橋通三丁目に移転。翌1877年(明治10年)には心斎橋筋一丁目に移転すると共に十合呉服店へ改称した[2]。
外商顧客が神戸エリアで増加していたことを受け、1899年(明治32年)6月25日、神戸市相生町二丁目(後の生田区相生町→中央区相生町、神戸駅北口)に外商出張所として神戸支店を開設し、1901年(明治34年)4月3日には元町五丁目に移転した[2]。神戸支店は店舗販売も拡大するなどして、順調に売り上げを伸ばし、阪神電気鉄道三宮駅ビルへ出店する形で1933年(昭和8年)10月1日に移転・増床し、百貨店として開業した[2]。この移転の告知では「神戸そごう」というひらがな表記を用いており、その後の各店舗での「そごう」表記の第一歩となった[2]。
1935年(昭和10年)9月24日には大阪・心斎橋の本店として村野藤吾設計の地下3階・地上8階建ての新店舗へ建て替え工事を行い、増床と近代化を実現した[2]。
心斎橋の新本店ビルは、ガラスブロックを活用した美しい垂直線を強調したもので[2]、モダニズム建築の傑作と評価されている。店内には食堂をはじめ、700名収容の劇場や茶室、貴賓室など、売場以外の機能も併設されていた。そして開業直後には大阪市営地下鉄御堂筋線が開通し、心斎橋駅と直結することとなった[2]。心斎橋本店は全館一挙に建設されたのではなく、2期に分けて建設された。しかし、2期工事の建設費は板谷宮吉率いる板谷財閥の資本導入により実現し、この際に十合一族による同族経営が終わった[2]。
社名は、1940年(昭和15年)に「十合」[3]となり、第二次世界大戦終戦後に株式会社を設立した1969年(昭和44年)に「そごう」となった[3]。
第二次世界大戦中は配給品以外の商品が大幅に減少したため、売場に空きが生じたことから、大阪本店の地下2階部分を活用して「家財保護預り」を行い、顧客の財産を守る事業も展開した[2]。この保護預かり制度は話題を呼び、大阪市内のみならず大阪府下全域からの利用者があった[2]。
終戦後は、大阪本店が進駐軍に徴用され、PX(進駐軍とその家族向けの売店)として使用したため百貨店としての営業ができなくなり、大阪市内に在日外国人向けの輸入品店「オーバーシーズサプライズストア」を含めていくつかの店舗を展開し、営業機能の一部を代用する形になった[2]。
その後、日本デパートメントストア協会など百貨店業界を挙げた接収解除運動もあって接収解除が実現し、1952年(昭和27年)6月1日に大阪本店の営業を再開した[2]。しかし、この間約6年にわたって本店で営業できなかったことの影響は大きく、再開店から1年後には早くも売上が伸び悩むことになった[2]。
また、業績不振で株価が低迷している一方で自社物件だった本店に不動産価値が見込まれたため、一時期は外部からのグリーンメーラーによる株買い占めにも遭う[4]など、苦境が続いた。
1957年(昭和32年)5月25日には[5]、有富光門の主導により、読売新聞が有楽町に建設した読売会館に東京店(有楽町そごう)を開店[4]、東京への進出を果たした。しかし、この東京店は有富が読売新聞社主の正力松太郎と一坪当たり月額4,000円という高額の定額家賃の契約を結んでいたため、月商約3億円に対し約7,000坪で約2,800万円の家賃は、当時業界の常識とされていた売上高の約3%から5%を大きく上回って採算が合わず、業績の足を引っ張る結果となった[4]。
このため、翌1958年(昭和33年)4月、京都を中心とする関西財界の顔役で日本繊維工業社長であった坂内義雄を社長に迎え、板谷宮吉の縁戚とされる当時日本興業銀行(現:みずほ銀行)から特別調査室付考査役であった水島廣雄が副社長として就任、メインバンクで大株主で大口債権者である大和銀行(現:りそな銀行)から常務であった若菜三良が同じく副社長に就任し、ともに経営再建に取り組むことになった[6]。
ところが、1960年(昭和35年)11月26日に坂内義雄社長が急逝[7]。当時慣例化していた大和銀行と野村証券、山一證券、板谷宮吉、住友正雄で構成される「5者会」に諮ることなく、同年12月23日の取締会において大和銀行の独断で、同行出身の若菜三良が副社長から社長に就任した。そのため、5者会を構成する他者が反発し、経営権を巡って抗争が生じることになった[7]。この経営権を巡る争いは大和銀行が公正取引委員会に提訴される事態に発展し、翌1961年(昭和36年)10月26日にアサヒビール社長山本爲三郎の仲介でようやく終息をみた[7]。
この経営権争奪戦の解決を受けて、若菜はそごうを去り、1962年(昭和37年)1月30日に増資を決議して同年6月1日に資本金10億円へ増資し、同年4月26日に水島廣雄が副社長から社長に就任した[7]。
水島は止む無く社員のリストラを進めたが、会社存続に売上の確保が不可欠として神戸店の増築のみは続けられたほか、経営が好転した際の給与引き上げを約束した。
神戸店は増築・増床を進めて売場面積約31,800m2へ倍増させ[8]、1971年(昭和46年)には年間を通じて神戸一の売上を上げて地域一番店となった[2][8]。その後も隣接する神戸国際会館と共同でケイ・エスビルを建設して新館とするなど、さらなる増床で売り上げを伸ばした[2]。阪神・淡路大震災前には売場面積約48,962m2まで拡張した[8]。
大阪店でも、御堂筋の西側にある南区鰻谷西之町に駐車場ビルを建設するなどの集客策を打ち出した[2]。東京店では読売新聞との家賃引き下げ交渉を行い、地下鉄有楽町駅と地下売場を直結させるため交渉するなどテコ入れを図った[2]。
1966年(昭和41年)10月28日に地域子会社第1号として株式会社千葉そごうを設立し[2]、翌1967年(昭和42年)3月21日に千葉そごう(旧店舗)を千葉駅前に開業[2]。開業2年目で地域一番店となり、3年目に早くも黒字化するなど軌道に乗せた[8]。これにより、全国への多店舗展開にかじを切ることになった[2]。
地域子会社方式によるそごうグループでの多店化は千葉そごうが始まりであり[8][7]、以降そごうの出店に際しては千葉そごうを中心に、黒字化していたそごうグループ各社が出資することで、そごうのグループ会社として運営されていくことになった[9]。
多店舗展開の開始当初は千葉そごうが出資する形で始まり、初期の出店である柏そごう(1973年)や広島そごう(1974年)も、黒字転換後は出資側に回り、多店舗戦略を支える形式をとっていた[8]。千葉そごうは1972年(昭和47年)10月に別館を増設し[2]、1974年(昭和49年)10月に開業した広島そごうは、当初は売場面積が10,000m2未満に抑えられていたものの、将来的に30,000m2まで増床可能な設計となっていた。両店とも近隣にサテライト店舗を展開して集客力と売り上げの拡大を目指すなど[7]、店舗の増床も積極的に推し進めて地域一番店を目指した[7]。増床戦略の最盛期には、千葉そごうがモノレール駅と一体化した新店舗を開設すると共に旧店舗を業態転換させることで4館合計で売場面積約90,000m2体制とした。また、広島そごう新館をNTTクレド基町ビルに開設するなど主力店周辺に店舗を出店して、立地地区の集客力を強化する戦略も展開していた[8]。
株式会社千葉そごうは、初代会長に就任した水島廣雄が株式の大半を保有したため、株式会社そごうの連結対象外企業であった。また、株式会社千葉そごうがそごう本体の筆頭株主となっていた時期もあった[10]。こうした地域子会社同士のグループ内での複雑な株の持ち合いにより、そごう内部の経営状況は水島以外が把握できない状況となってゆく。
そごうでは「交通のよい最適地に最大級の百貨店をつくる」ことを出店戦略の基本として[8]、駅前に巨艦店を次々と出店するという多店舗戦略を進めていった。
この出店計画は旧名称「十合」の十にちなみ、10店舗構想「グレーターそごう」と名付けられ、千葉そごうを皮切りに黒崎そごうの出店で達成した[8]。さらにそれを拡大し、20店舗構想「ダブルそごう」、30店舗構想「トリプルそごう」と称して積極的な展開を行った[8]。
多店舗展開にあたっては国道16号を「レインボーロード」と称し、東京都心部を包囲するように国道16号沿いへ出店する戦略を採った。これは、東京都心部にはすでに在京百貨店を含めた同業他社が集中的に出店しており、有楽町そごうで苦戦して以来、東京都心部への出店が遅れたそごうの入り込む余地が残されていなかったためである。そのため首都圏では郊外への出店がメインとなり、商圏人口に見合わない規模の店舗が近隣地域に複数出店することも多かった(多摩そごうと柚木そごう、木更津そごうと茂原そごうなど)。
また、株式会社千葉そごう設立の3年後となる1969年(昭和44年)5月21日には、横浜駅前への出店を見据えて株式会社横浜そごうを設立。相模鉄道が開発を主導して駅ビル「相鉄ジョイナス」を建設し横浜髙島屋を誘致した西口に比べ、開発の遅れていた横浜駅東口の用地を安価に取得した。実際に出店したのは16年後で、横浜駅東口再開発事業に合わせ、横浜新都市センターによって建設された「横浜新都市ビル」の核店舗として、1985年(昭和60年)9月30日に横浜そごうを開業。開店資金約590億円を投資し「横浜が生んだ、世界最大級の百貨店」をキャッチフレーズに、開業当時は東洋一の売場面積を誇る巨艦百貨店としてオープンした。この横浜店は現在もそごうの「基幹店」として営業している。
こうした小売・流通業というよりデベロッパー的な手法により、1980年代から1990年代にかけて、各地の自治体主導により行われた駅前再開発事業の核店舗として入札し、破格の賃料を提示し競合他社を退けて巨艦店の出店を続けた。そごうの経営を特徴づける1店1社の地域子会社制もこのための手法であった。再開発では無視できない地元商店街などの反対意見として「本社のある都市(そごうの場合は大阪)に利益が吸い取られる」というものがあるが、地域子会社が出店することで「地元に金を落とす」と主張して批判をかわし、自治体の再開発事業への出店を有利に進めていった。
しかしバブル景気の崩壊により、土地の値上がりを前提として銀行から融資を引き出し、出店した店舗を担保に次の出店のための融資を得るというサイクルが崩れ、巨艦店を出店し規模で他店を圧倒して地域一番店を目指すという「大艦巨砲主義」的モデルに翳りが差した。そのため経営破綻直前の1990年代後半には、再開発事業で出店予定していた店舗の計画中止が相次ぐこととなった。
海外展開においても、アジアへの出店では日本人観光客よりも、地元の消費者を狙う戦略で出店している。実際に、香港そごうでは約85%、台湾太平洋そごうでは約95%が地元客といわれ、地元密着の百貨店となった[8]。
2000年(平成12年)7月12日、山田恭一社長は記者会見にて「再建計画を断念し、民事再生法の下で再建を図ることになった」と発表した。これにより、当時は小売業として過去最大規模となる約1兆8,700億円の負債を抱え、事実上倒産した[9][11]。これは1999年(平成11年)12月22日に民事再生法が公布されて以来、大企業としては初となる申請となった。
その前夜の7月11日、全国のそごう店舗の代表者が東京に集まり、深夜まで対応策が協議された[12]。各店舗を経営する地域子会社は、そごう本体と同じく自主再建を考えていたが、結果的に全社が自主再建を放棄し、民事再生法の申請を行うことで一致した[12]。
同年10月25日には、民事再生法の適用を申請した22社のうち、9社の再建を断念し、残る13社は株式会社十合を受け皿会社として合併し、1社に統合して再建を目指す再生計画案を東京地方裁判所に提出した[13]。そごうグループ全社が民事再生法の適用を受けたのではなく、経営状態などの相違により特別清算や自己破産となった法人もあった[9]。
そごうは土地の値上がりを見込み、銀行融資を受けて積極的に出店していたが、バブル崩壊によりこのビジネスモデルが破綻した。また平成不況による消費の低迷に加え、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災で神戸店が被災し、本館が半壊して経営に打撃を受けたことも破綻の一要因となった。
経営破綻後のそごうは、西武百貨店元社長の和田繁明を特別顧問に招聘した[9]。長い間休眠子会社であった株式会社十合を持株会社化の上、株式会社ミレニアムリテイリングに商号変更、2003年(平成15年)にはミレニアムリテイリングによる経営統合を実現した。その後、2005年(平成17年)には、ミレニアムリテイリングをセブン&アイ・ホールディングスが買収した。
2009年(平成21年)8月1日、そごうを存続会社として、西武百貨店とミレニアムリテイリングを吸収合併し、株式会社そごう・西武に商号変更した。同月末、赤字が続いたそごう心斎橋本店を閉店して、創業の地・大阪市中央区を離れた。
そごうの自主再建断念の背景には、1998年に日本興業銀行と並ぶメインバンクであった日本長期信用銀行(長銀、現:新生銀行)が経営破綻したことが挙げられる。破綻後、長銀は一時国有化を経てリップルウッドを中心とする投資組合に売却されたのだが、この際に不良債権について、譲渡後3年間に2割以上の損失があると認定された場合には、融資時の金額までの損失を預金保険機構が補填する仕組みとなる瑕疵担保条項の適用という特約が付けられた[9]。
そのため、同行が債権放棄を受け入れることについては金融再生委員会と預金保険機構が関連することになり、「そごうへの債権を放棄して一企業に税金を注ぎ込むとは何事か」という批判が巻き起こり、当社の再建策は政治問題化することになった[14]。
当時の森内閣は、同年6月25日の総選挙直後で支持率が低迷していたことから批判に耐えられないとして、同年7月11日に亀井静香自民党政調会長(当時)は山田恭一そごう社長に対し、そごうの債権放棄を認めることが困難であることを電話で伝え、それを前提とした自主再建案の断念を迫った[14]。亀井からの要求を受け、そごうは自主再建を断念[14]。翌7月12日に株式会社そごう(上場企業)とそごうグループの主要企業が民事再生法を申請した[14]。
結果的に瑕疵担保条項適用分は、他の不良債権と合わせて国が負担することになったが、自主再建の場合に比べて再建の流れが公になることで、政治問題として決着がつくとされた。この問題は当時「そごう問題」「そごう債権問題」などと呼ばれた。
株式会社そごう(初代)が運営していた直営店舗は、大阪店と神戸店、東京店のみであった[9]。それ以外はすべて1店舗1社制とし、資本金は地元からの出資、株式会社そごう、千葉そごうを筆頭としたそごうグループ各社、水島が個人で出資する場合など、資本関係は極めて複雑なものとなっていた[9]。
また、グループ各社間で貸付金や債務保証も行われていたため[9]、経営破綻時の各社の負債総額は、運営する店舗の業績とは必ずしも一致していなかった。
2000年の経営破綻時の主な負債額は以下のとおり。
有楽町そごうが閉店するまでは読売ジャイアンツの応援セールを行っていたが、これは入居する建物(読売会館)の建物所有者が読売グループであることによる。東京進出に際して建物がなかなか見つからずにいたところに、読売グループが建物を快く提供したため、これに対する恩返しの意味もあったとされる。そごうの経営再建に伴い、応援セールの権利は三越を経て三越伊勢丹ホールディングス傘下の各社(三越伊勢丹とジェイアール西日本伊勢丹など)に引き継がれた。
なお、そごう・西武となった後は「西武」ブランドの店舗(旧ロビンソン百貨店を含む)と同様、埼玉西武ライオンズの応援セールを行っている。ただし、セールを行う店舗は、ライオンズの地元埼玉県にある大宮・川口の2店舗が基本的に対象である。かつては埼玉県を商圏に含む店舗も対象であり、柏(2015年まで)・八王子(2010年まで)もセール対象だった。2018年は大宮・川口に加えて横浜、千葉、西神、徳島の各店が対象となった。しかし横浜は2019年の西武優勝セールは実施せず横浜DeNAベイスターズの応援セールに回った。
一方、地元球団がある場合はジャイアンツや西武ライオンズではなく、地元球団の優勝セールが優先される。広島そごう(現:そごう広島店)は、広島東洋カープが優勝した際に優勝セールを行っている。2008年まで同球団の本拠地だった旧広島市民球場は徒歩圏内にあった。そごう神戸店では阪急阪神東宝グループの阪急阪神百貨店への移管以前より、三宮阪神ビルに入居している関係や地域性もあり、阪神タイガースの優勝時にセールを実施していた[45]。また、阪急東宝グループ(当時)の球団売却後には、神戸に拠点があったオリックス・ブルーウェーブの優勝セールも行ったことがある(1995・1996年。このときは神戸市内の同業他社(大丸神戸店・ハーバーランド時代の神戸阪急)も参入した)。
東京ディズニーランドのアトラクション「イッツ・ア・スモールワールド」のスポンサーだったそごうの一部店舗には、正時の約5分前になるとアトラクションに登場するからくり人形とともに、テーマ曲の「小さな世界」を演奏するからくり時計「イッツ・ア・スモールワールド時計」(世界の人形時計)が設置されていた。
設計は乃村工藝社、製造はセイコーが行った。
1985年(昭和60年)に開業した横浜そごうを皮切りに、一部の新規店舗・既存店舗に国内店舗全19基、海外店舗全4台の計23基が設置された。
ほとんどの店舗で屋外に面した入口、または地下のメインエントランス部分に設置されていたが、大阪店や奈良そごうのようにフロア壁面に設置された物もある。
人形の修繕工事は定期的に実施され、最初に導入した横浜そごうでは2006年(平成18年)に最後の修繕工事を行った。
最盛期(1994年6月の千葉店への設置から同年10月の柚木そごう閉店までと、1996年の神戸店設置から2000年2月の茂原そごう閉店まで)には国内で最大18基が稼働していた。民事再生後の2008年4月時点では10基に減っていた。
運営会社が2006年にセブン&アイホールディングス傘下に入ったのち、2008年(平成20年)4月15日、老朽化を理由に全店舗でからくりの演出を終了した。
公式ホームページ上では、そごう横浜店の項目内に4月16日付けでからくり機能終了のリリースが掲載されたほか、朝日新聞大阪本社版、神戸新聞でも相次いで時計の話題が報道された。なお、4月15日は東京ディズニーランド開園25周年の記念日でもあった。
この対応はそごうがアトラクションのスポンサー契約を解除したことが本来の理由だが、観覧に来ていた来店客に対しては、
「世界の人形時計」は来たる4月15日(火)、営業時間終了時をもって終了させていただくことになりました。 |
おにんぎょうさんたちは、おやくそくがあって、おうちにかえることになりました。 |
と書かれた告知が時計の傍らに貼り出された。
以降そごう・西武の管理する時計は「鐘の鳴る大時計」として運用されている。
世界の人形時計の演出終了について、民事再生前の株式会社そごう出身で、そごう・西武の販売促進部長やセブン&アイHLDGS関連会社の取締役などを歴任した実業家の原田良治は、
「 | これを見て自殺をとどまったホームレスの方もいらっしゃいました。あの時もう少し上司に食い下がれば残せたかもと、後悔の念は消えません。 | 」 |
—Twitterの投稿より |
と述懐している[46]。
そごうの撤退後に別の商業施設へ転換した店舗でも、そのまま通常の時計として作動させている施設が見受けられる。
海外店舗では、そごう・西武が商標を貸与している遠東SOGOの一部店舗で香港ディズニーランドにおけるイッツ・ア・スモールワールドのスポンサー契約を開始したことから、継続してからくりの演出が披露されている。
記号 | 店舗 | 設置番号 | 設置年月 | 備考 | 現状 |
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○ | 横浜そごう | 1号機 | 1985年9月 | 初号機のため鐘の音色が異なる。 | 鐘の鳴る大時計 |
広島そごう | 4号機[注釈 4] | 1988年11月 | 既存店への設置。 | 鐘の鳴る大時計 | |
奈良そごう | 6号機[注釈 5] | 1989年10月 | 現在のミ・ナーラ | ボルダリングの壁面に転用。 | |
多摩そごう | 7号機[注釈 6] | 1989年10月 | 現在のココリア多摩センター | 撤去 | |
呉そごう | 8号機[注釈 7] | 1990年3月 | 建物解体により撤去 | 撤去 | |
西神そごう | 9号機[注釈 8] | 1990年10月 | 現:エキソアレ西神中央 | 鐘の鳴る大時計 | |
徳島そごう | 10号機[注釈 9] | 1990年10月 | 既存店への設置。 現:アミコ東館 |
撤去 | |
川口そごう | 11号機[注釈 10] | 1991年10月 | 鐘は時計上部に設置。 閉鎖 |
鐘の鳴る大時計 | |
心斎橋そごう | 12号機[注釈 11] | 1991年11月 | 既存店への設置。 建て替え後の心斎橋本店には設置されず。 |
2003年に施設解体 | |
福山そごう | 13号機[注釈 12] | 1992年4月 | 現:リムふくやま(Ichi・setouchi) | 撤去 | |
茂原そごう | 14号機[注釈 13] | 1992年3月 | 現:南総サンヴェルプラザ | 盤面の数字と針は撤去 | |
柚木そごう | 15号機[注釈 14] | 1992年6月 | 現:ガレリア・ユギ | 撤去 | |
豊田そごう | 16号機[注釈 15] | 1992年11月 | 既存店への設置。 現:T・FACE |
撤去 | |
柏そごう | 17号機[注釈 16] | 1992年12月 | 既存店への設置。 時計も停止 |
停止 | |
● | 大宮そごう | 2号機 | 1987年3月 | 鐘の鳴る大時計 | |
加古川そごう | 5号機[注釈 17] | 1989年9月 | 現:カピル21 | 撤去 | |
△ | 小倉そごう | 18号機[注釈 18] | 1993年10月 | 現:セントシティ | 撤去 |
千葉そごう | 19号機[注釈 19] | 1994年6月 | 鐘の鳴る大時計 | ||
そごう神戸店 | 21号機[注釈 20] | 1996年4月 | 既存店への設置。2階「サンファーレ広場」に設置。 現:神戸阪急 |
鐘の鳴る大時計 |
記号 | 店舗 | 設置番号 | 設置年月 | 備考 | 現状 |
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○ | 台中廣三店 | 20号機[注釈 21] | 1995年11月 | 海外店舗で唯一の正方形タイプ(正方形5×5マス型の最終機) | 世界の人形時計 |
▲ | 台北忠孝館 | 3号機[注釈 22] | 1987年11月 | 海外店舗では初の人形時計。設置当初は登場する人形の数が6体だったが、その後6体増やされて12体になっているほか、配置も変更されている(人形が増やされた時期は不明)。 | 世界の人形時計 |
高雄店 | 22号機[注釈 23] | 1996年9月 | 台湾では3機目の人形時計。高雄の個体のみ人形の配置が台北、中壢とは異なる。 | 世界の人形時計 | |
中壢元化館 | 23号機[注釈 24] | 1998年9月 | 台湾に設置、人形時計における最終機。 | 世界の人形時計 |
また、クアラルンプールそごう店にはワールドクロックというからくり時計があった。世界地図が模された文字盤が 5 つに分かれてそれぞれ反転し、12 体の人形(1 列 3 体)とツリー上に設置された複数のカリヨンが登場する。現在は撤去されており、音楽は不明。ベゼル部分には 6 ヶ国の時刻を表示するデジタル式液晶の世界時計が搭載されている。