なすび | |
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平成26年度人権シンポジウム(2014年) | |
本名 | 浜津 智明 (はまつ ともあき) |
生年月日 | 1975年8月3日(49歳) |
出身地 | 日本・福島県福島市 |
言語 | 日本語 |
コンビ名 | 覇王樹(サボテン)〔活動時期不明〕 |
相方 | ルンルン金城 [1] |
事務所 | NF.L |
なすび(本名:浜津 智明(はまつ ともあき)、1975年8月3日 - )は、福島県を拠点に活躍する日本のタレント、俳優。福島市立渡利小学校、福島市立蓬萊中学校、福島県立福島東高等学校、専修大学法学部卒業。劇団「なす我儘(がまま)」主宰、劇団丸福ボンバーズ参加中。所属事務所はNF.L。血液型はO型。
芸名は、ナスのような30cmの長い顔に由来。家族は普通の大きさの顔であるため「両親とは血が繋がってないのではないか」と疑心暗鬼になったこともある。
かつては覇王樹(さぼてん)というお笑いコンビを組んでおり、当時は本名の「浜津智明」名義で活動していた。また、コンビ時代に「ダウンタウンのごっつええ感じ」に出演したこともある。元の所属事務所はワタナベエンターテインメント。
後述する『進ぬ!電波少年』への出演で一躍有名になったが、この番組での「懸賞生活」のイメージが強すぎたこともあり、お笑い芸人としては売れなかった。『電波少年』への出演後は、出身地である福島で冠番組を持ち、ローカルタレントとして活動。
一方で、憧れの存在である渥美清を目指し、喜劇俳優としての活動を本格化させる。2002年に劇団「なす我儘(がまま)」を立ち上げ、座長を務める。以後は舞台を中心に活動。
2005年、テレビドラマ『電車男』出演をきっかけに俳優としての出演も増えている。2008年には、サウンドノベルゲーム「428 〜封鎖された渋谷で〜」において、怪しげな栄養ドリンクを売りさばこうとする実業家として登場している。
2011年、統一教会が実質的に主催するサッカーイベント「ONE KOREA CUP in Japan」に参加し批判を浴びた[2]。
2011年3月に発生した東日本大震災で地元福島県が被災したのを機に被災地の復興支援にも精力的に取り組んでおり、熊本地震(2016年)や西日本豪雨(2018年)、能登半島地震(2024年)などのボランティア活動に参加している[3]。
2023年9月、半生を追ったドキュメンタリー映画『ザ・コンテスタント』が英国で制作され、カナダの第48回トロント国際映画祭で上映される[4]。
2024年3月25日、福島県会津美里町観光大使に任命される[5]。能登半島地震の災害ボランティアをした縁で、2024年8月8日に石川県観光大使に就任[6]。
日本テレビ系列で放映されていたバラエティー番組『進ぬ!電波少年』で開催された「運だけが頼りの企画」のオーディションでくじ引きを当て合格。「人は懸賞だけで生活をしていけるか」をテーマに掲げて放送された「電波少年的懸賞生活」のチャレンジャーとなった。アパートの一室に監禁され、文字通り裸一貫からスタートして、様々な懸賞に応募。日本と韓国を舞台に1998年から1999年の1年3ヶ月にわたってそれぞれの目標商品総額(日本では100万円、韓国では日本までの片道飛行機代の81万6000ウォン)をクリアした[注 1]。
懸賞生活をテレビ放映していた事は本人には知らされておらず、本人の知らぬ間に有名人になっていた。懸賞生活中にテレビを当てたものの、ケーブルやアンテナがなくテレビ番組を見ることができなかったためである。
懸賞生活の日々を綴った書籍『懸賞日記』も出版され、ベストセラーとなった。また、「世界で最も長く懸賞生活を続けた人」としてギネスブックにも掲載された[7]。
ちなみに、企画終了後に行われた記者会見で、「また同じような企画があったらやってみたいですか?」との質問に「懸賞生活につきましては、もう金輪際二度とやりたくありません」とはっきりと答えている。懸賞生活終了後は、有名にはなったものの「自分のやりたいことと世間のイメージとのギャップに悩んだ」とも語っている。
また懸賞生活開始当時は専修大学法学部の4年生だったが、企画参加のため留年せざるを得なくなった。しかし、担当教授がたまたまテレビでなすびの懸賞生活を目にし、学籍を維持してくれたため、企画終了後に改めて通い直し卒業したという[8]。
ちなみに開始から終了まで髪・髭・爪が伸び続けていたが、爪は1998年7月に当たった裁縫セットのハサミで切っている。
第二日本テレビの企画で、小島よしおが「電波少年的懸賞生活2009」に挑んだときに[9]、ドロンズや有吉弘行(元・猿岩石)など『電波少年』に出演したタレントが出演し、プロデューサーの土屋敏男と当時の裏話で盛り上がったが、なすびは出演せず、土屋によると「出演依頼をしたが『今は土屋さんと会う気になれない』と拒否された」と語っている[注 2]。
「電波少年」での1年3ヶ月の経験は、現在の活動にも強く影響を与えており、「精神力が鍛えられて、タフになりました。底が深くなったと思います。あの時はずっと一人でいて、同じ作業の繰り返しがつらかった。あの時の苦労を思えば、何でもできます。番組が終わって、精神的におかしくなった時期があって。何度も死のうと思いました。そんなこともあり、『やりたいことをやらなければ損』と思うようになりました。今は、やりたいことをやっています。舞台中心に役者活動ができていますし、幸福を追求しています」等と述べている。
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた外出自粛ムードの中で、1年3ヶ月の懸賞生活で培った内容をツイートし[10]、反響を呼んだ[11]。