はせ さんじ はせ さん治 | |
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プロフィール | |
本名 |
長谷 弘夫 (はせ ひろお)[1][2][3][4][5] |
愛称 | サンちゃん[6] |
性別 | 男性 |
出生地 |
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出身地 |
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死没地 |
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生年月日 | 1936年1月2日 |
没年月日 | 2002年3月8日(66歳没) |
血液型 | B型[4] |
職業 | 声優、俳優 |
配偶者 | 長谷妙子[9] |
著名な家族 | 長谷有洋[9] |
公称サイズ(時期不明)[10] | |
身長 / 体重 | 174 cm / 69 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1960年代 - 2002年 |
ジャンル | アニメ、吹き替え |
デビュー作 |
『狼少年ケン』 ※テレビアニメのデビュー作 |
俳優活動 | |
活動期間 | 1950年代 - 2002年 |
ジャンル | テレビドラマ、舞台 |
はせ さん治(はせ さんじ[注 1]、1936年[注 2]1月2日[2][3][5][11] - 2002年3月8日[8][12][13][14])は、日本の声優、俳優。東京府東京市淀橋区(現:東京都新宿区)出身[7]。
1936年、東京市立大久保病院(現:東京都立大久保病院)で誕生[7]。
戦時中は小学3年生の時に静岡県田方郡伊東町(現:静岡県伊東市)に集団疎開したが、その後東京に帰郷した[5]。
終戦後、児童劇団「青い鳥」に入団したが、理由は劇団の稽古場に行けば芋が貰えたからであった[5][11]。中学・高校時代は演劇部に所属していた。中学時代は貧乏であり、卒業式を待たずに丁稚奉公に出されて東京神田の紙問屋に働いていた。夜は東京都立工芸高等学校印刷科に通って印刷技術の習得をしていた[5]。
吉本興業が東京で始めていた新人タレントの募集に応募し、3千人の応募者の中からトップの成績で合格し、夜学に通いながら昼は吉本興業のレッスン場に通っていた。「これからの役者は、歌って踊れなくてはダメだ」と考えてレッスンのかたわら[5]、16歳の時にクラシックバレエを習う[7]。
1954年、18歳の時に吉本ラジオセンターに所属し、スタジオで文化放送の下請けをとってから文化放送の『連続歌謡物語』などに出演できるようになり、プロの世界へと足を踏み入れる[5][6][15]。高校卒業後、「さらに幅広い芸を身につけたい」と思い、東宝芸能学校2期[15]として入学[5]。同校の先輩に藤村俊二がいる[5]。ここでは毎日8時間、演劇、歌唱、クラシックバレエからモダンバレエ、日本舞踊にタップダンス、殺陣まで、あらゆる芸事を学んでいた[5][7]。在学中から、新宿コマ劇場でのエノケン劇団や宮城まり子ショーにも出演し、貝谷八百子、近藤玲子などの一流のバレリーナのステージにも出演。一方、夜はキャバレー「青い城」で踊り、若手ながらかなりの収入も得られるようになった[5]。江戸家猫八(3代目)門下[16]。芸能学校の2年間の課程を終え卒業も間近な時、東宝現代劇に進むチャンスがあったが敢えて断り、猫八に弟子入りした。当時は早朝、中野区の自宅から師匠の日本橋浜町まで通い、内弟子1年を含めて2年4か月務めていた。その時の師匠のお供以外の日課は靴みがきと犬の散歩だけで、「芸は盗め!!」というのが師匠の教育方針で、芸事は教えてくれなかった[5]。
松竹青春喜劇[6][17]、コメディー・フランキーズ[6][17]を経て、みどりプロに所属し、みどりプロ時代はチョイ役、代役を引き受けていたが、番組プロデューサーの目にとまり、初レギュラーでもあるNHK総合テレビの子供向け番組『ものしり博士』にコント役者として1960年から1968年まで8年間、レギュラー出演[5][8][14][16]。
その後も、『チロリン村とくるみの木』が6年、『いいものつくろ』[18]が3年、『ひょっこりひょうたん島』が1年と、NHKの子供番組に長期にわたって出演し、声は子供たちにはおなじみとなった。その時はワンテンポずれたような、間延びした台詞回しが大いに受け、役柄としては、ボケ役、やせたヒョロヒョロ男役が多かった。日本テレビ系列の子供番組『テレビのおばちゃま』では水森亜土と組み、『おはよう!こどもショー』では愛川欽也が声&スーツアクターを務めていたロバくんと共演し、人気を博していた[5]。
ステージで歌って踊って演劇をする役者になりたく芸能界に身を投じたが、テレビの仕事が増え、レギュラーは週7本にもなっていた。来る日も来る日も次の台本の台詞を覚えなくてはならなく、台詞を覚えたと思ったところ本番で、そんな毎日の生活にノイローゼ気味となっていた。創造性を発揮させないうちに本番が終わり、不本意な作品が次から次へと放映されていくテレビの仕事に欲求不満をつのらせていき、「このままでは、役者としての俺は殺される!!」と思った。矢も楯もたまらず、全てのテレビ番組を降板し、大阪へ向かう。OSミュージックホールで、今までテレビではできなかったコント、漫才を心ゆくまでして観客の喝采を浴び、たまっていたうっぷんを一気に晴らしたという。1970年、レ・フレール・ジャックの日本版を作ろうと、カンカン帽に黒タイツ姿の4人組を結成し、ステージに、フロアに、日本万国博覧会にも出演した。万博後は東京に戻り、さわプロダクション[19]を経て、東京俳優生活協同組合に所属[5]。その後、青二プロダクション[5][20]、蛭川企画[3]、九プロダクション[1][10]を経てフリー。
声優としては1970年代から80年代にかけて、東映動画制作のアニメに数多く出演、名脇役として活躍した[7][13][16]。『ひらけ!ポンキッキ』には顔出しして出演[16]。谷幹一、パンチョ加賀美と共演し、高い評価を得ていた。
そのままアニメなども出演し、56歳まで続き、その後、舞台も参加していた[7]。
晩年は長男に先立たれ、さらに自身も長男の死去から翌年に肺癌を患うという苦難に見舞われて、主治医に「余命半年」と宣告されていたが、闘病を続けながらテレビ・舞台などで活躍を見せた[13]。
2002年3月8日、肺癌のため東京都豊島区の病院で死去[8][13]。66歳没。
2006年7月28日 - 30日、妻、長谷妙子を座長とし、劇中で本人の録音音源を使用した追悼公演が新宿でシアターBRATSにて行われた[15][21][22]。
長男は同じく俳優・声優の長谷有洋[9]。父は郵便局員だったが、ピアノ、アコーディオン、ギター、その他もろもろの楽器からタップダンスまで、熱心にレッスンに通っており、人の集まるところに出かけて芸を披露するなど中々の芸人ぶりだった[5]。当時の下級官吏は経済的には恵まれていなかったが、父は芸事を決してやめようとせず、母は父に対し恨み言ひとつ言わずに尽くしていた[5]。そんな父の芸達者ぶりに尊敬の念を抱いており、後年に俳優への道を歩み始めることになったのは、父の血を受け継いでいたからでもあるだろうという[5]。
モットーは「急がば回れ」[5]。
はせの死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
後任 | 役名 | 該当作品 | 後任の初担当作品 |
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岩崎ひろし | 案山子/ハンク | 『オズの魔法使』 | 『トムとジェリー オズの魔法使』 |
梅津秀行 | オサゲ | 『プリンプリン物語』 | 「ざわざわ森のがんこちゃんスペシャルショー」 |
太字はメインキャラクター。