やなせ たかし | |
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![]() 1953年 | |
本名 | 柳瀬 嵩(やなせ たかし)[1] |
別名義 |
やなせ・たかし(壮年期までの表記) ミッシェル・カマ(作曲者としての名義) |
生誕 |
1919年2月6日![]() (現:東京都北区)[2] 育ちは高知県長岡郡後免町(現:南国市) |
死没 |
2013年10月13日(94歳没)![]() (順天堂大学医学部附属順天堂医院) |
国籍 |
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職業 | 漫画家・絵本作家・詩人 など |
活動期間 | 1947年[注釈 1] - 2013年 |
ジャンル |
おとな漫画 絵本 |
代表作 |
『アンパンマン』 『手のひらを太陽に』 |
受賞 |
1967年週刊朝日漫画賞(「ボオ氏」) 1969年大藤信郎賞 1989年第19回日本童謡賞特別賞 1990年日本漫画家協会賞大賞 1991年勲四等瑞宝章受章 1994年高知県香美郡香北町名誉町民 1995年日本漫画家協会文部大臣賞 2000年日本童謡協会功労賞 2000年日本児童文芸家協会児童文化功労賞 2001年第31回日本童謡賞 2002年高知県特別県勢功労者 2003年第50回交通文化賞国土交通大臣表彰 2004年新宿区名誉区民 2008年東京国際アニメフェア2008第4回功労賞 2011年高知県名誉県民 |
やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩〈読み同じ〉[1]、1919年〈大正8年〉2月6日[1] - 2013年〈平成25年〉10月13日)は、日本の漫画家・絵本作家・詩人[2]。有限会社やなせスタジオ社長。高知県出身(詳細は後述)。作曲家としてのペンネームは「ミッシェル・カマ」[3]。壮年期までは「やなせ・たかし」と中黒が付された表記をされていた。
『アンパンマン』の生みの親として知られる。社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、社団法人日本漫画家協会代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任。
絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど様々な活動を行っていた。
1919年(大正8年)2月6日、東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区)生まれ[2][注釈 2]。父方の実家は高知県香美郡在所村(現:高知県香美市香北町)にあり、伊勢平氏の末裔で300年続く旧家[5]。父親は上海の東亜同文書院を卒業後、上海の日本郵船に勤めた後、講談社に移り「雄辯」で編集者を務めた。
父親はやなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ、1923年(大正12年)に特派員として単身上海に渡る。その後、後を追い家族で上海に移住。この地で弟・千尋が生まれるものの、父親がアモイに転勤となったのをきっかけに、再び家族は離散。やなせらは東京に戻る。
1924年(大正13年)に父親がアモイで客死。遺された家族は父親の縁故を頼りに高知県高知市に移住する。弟は長岡郡後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた長岡郡医師会長の伯父(父の兄)・寛に引き取られ、まもなく母が再婚したため、やなせも弟と同じく伯父に引き取られて育てられる[6][7]。この伯父は趣味人でもあり、かなり影響を受けたという。
後免野田組合小学校(現・南国市立後免野田小学校)、高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)に進む[4]。少年時代は『少年倶楽部』を愛読し[4]、中学生の頃から絵に関心を抱いて、官立旧制東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部総合工学科デザインコース)に進学した[4]。同期生に風間完がいる。
官立旧制東京高等工芸学校図案科(現:千葉大学工学部デザイン学科)1939年(昭和14年)卒業後、東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職[4]。しかし、1941年(昭和16年)に徴兵のため大日本帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊(通称号は西部軍管区隷下部隊を意味する西部第73部隊[注釈 3]。)へ入営。学歴を生かし幹部候補生を志願し、その内の乙幹に合格し暗号を担当する下士官となる。
補充隊での教育後は日中戦争(中国戦線)に出征。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったという。従軍中は戦闘のない地域に居り、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという[2]。最終階級は陸軍軍曹。大東亜戦争では弟が戦死している[注釈 4]。
終戦後しばらくは戦友らとともにクズ拾いの会社で働いたが、絵への興味が再発して1946年(昭和21年)に高知新聞社に入社。『月刊高知』編集部[4]で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが、同僚の小松暢(こまつ のぶ)が転職し上京するのを知り、自らも退職し上京した。
1947年(昭和22年)に上京し小松と結婚。この時期、やなせは漫画家を志すようになるが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選ぶ。やなせ曰く「とにかく貧乏は嫌だった」。同年、三越に入社し、宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める[4]。三越の社内報はもとより、新聞や雑誌でも作品を発表。当初は漫画家のグループ「独立漫画派」に入ったが、まもなく「漫画集団」に移った。1953年(昭和28年)3月に三越を退職し、専業漫画家となる[9]。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意したという。
三越時代、やなせは包装紙のデザインを猪熊弦一郎に依頼している。猪熊のデザインにやなせのレタリングで「mitsukoshi」のロゴが入れられた包装紙のデザインは、「華ひらく」の名で半世紀以上使われている[10]。
1953年(昭和28年)に独立した後も精力的に漫画を発表していたものの、手塚治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり、やなせが所属していた「漫画集団」が主戦場としていた「大人漫画」「ナンセンス漫画」のジャンル自体が過去の物と看做されるようになり、作品発表の場自体が徐々に減っていく。1964年(昭和39年)にNHKの『まんが学校』に講師として3年間レギュラー出演したり[4]、その翌年にまんがの入門書を執筆するなど、大人漫画・ナンセンス漫画の復興に取り組み、1967年(昭和42年)には4コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞を受賞したものの[4]、1960年代後半は本当にきつかったという。
漫画家としての仕事が激減したやなせだったが、舞台美術制作や放送作家などその他の仕事のオファーが次々と舞い込むようになり、生活的に困窮することはなかった。業界内では「困ったときのやなせさん」とも言われていたという。やなせ曰く「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる[11]」。この時期にはコネクションが繋がり繋がって作品が生まれ、ヒットに至るという現象が2度起きている。
1960年代半ば、漫画集団の展覧会に、まだ弱小企業だった頃の山梨シルクセンター(現:サンリオ)の社長辻信太郎が来場。やなせにグラフィックデザイナーとしてのオファーを入れたことから、サンリオとの交流を深める。やなせは当初は菓子のパッケージを手掛けていたが、1966年(昭和41年)9月にやなせが処女詩集『愛する歌』[4]を出版社から出そうとした際に、「それならうちで出してくれ」とサンリオは出版事業に乗り出した。『愛する歌』はサンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録した。出版事業に乗り出したサンリオの元で、絵本の執筆も始める。1969年には短編メルヘン集の十二の真珠で『アンパンマン』が初登場[12][13]。ただしこのアンパンマンは後のものとは異なる作品であり、ヒーロー物へのアンチテーゼ(アンチヒーロー)として作られた大人向けの作品である。
1973年(昭和48年)には雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げ編集長を務める一方で、馬場のぼるらと「漫画家の絵本の会」を立ち上げるなど[4][14]、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる。同年に1969年発表したアンパンマンを子供向けに改作し、フレーベル館の月刊絵本「キンダーおはなしえほん」の一冊「あんぱんまん」として発表[12][13]。同作は当初評論家、保護者、教育関係者からバッシングを受けた。元は大人向けに書いた作品だったが、次第に、幼児層に絶大な人気を得るようになっていった。
1988年(昭和63年)には、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』の放映が日本テレビで開始される。テレビ業界的にかなり不安視されており、スポンサーが少なかった、数局のみの放送、昭和天皇の病状悪化による自粛ムードの最中での放送開始などと逆境を余儀なくされるが、まもなく大人気番組となり、日本テレビ系列で拡大放映された。キャラクターグッズなども爆発的に売れ、やなせは一躍売れっ子になった[15]。
アニメ『それいけ!アンパンマン』の大ヒットを受けて、1990年代以降は様々な賞を受賞。1996年(平成8年)7月には出身地の高知県香美市に香美市立やなせたかし記念館「アンパンマンミュージアム」が開館し、1998年(平成10年)8月には同記念館内に雑誌「詩とメルヘン」の表紙イラストやカットなどを収蔵した「詩とメルヘン絵本館」が開館するなど名声が高まっていった。官庁や地方自治体、公益事業や業界団体などのマスコットのキャラクターデザインを懇請され、無償で引き受けることも多くなった。前述の「詩とメルヘン」編集長時代も初期はほぼノーギャラで引き受けていた[注釈 5]。
やなせは名声に甘んじることなく漫画の復興にも取り組んだ。1992年(平成4年)から地元高知で行われていた一コマ漫画の大会「まんが甲子園」には立ち上げ時から深くかかわり、晩年まで審査委員長を務めた。2005年(平成17年)には財政難を理由にまんが甲子園入賞校へ贈る賞金の半減を打ち出した高知県に対し総額200万円の資金提供を申し出ている[17]。
2000年(平成12年)には日本漫画家協会理事長に就任。結果を残すことが出来なかったが、懸案事項は「ストーリー漫画以前の漫画家と以降の漫画家の収入格差をいかに解消するか」だった。やなせは自社ビルに日本漫画家協会を家賃タダで入居させていた。
この時期から「漫画家ならば行動や言動も漫画的に面白くなければならない」という信念を持つようになり、テンガロンハットにサングラス、カウボーイブーツという独特なファッションで公の場に現れ、日本漫画家協会の会合やその他のイベントなどで歌や踊りを取り入れたユニークなスピーチをするようになった。
2001年(平成13年)には自作のミュージカルを初演、2003年(平成15年)には同ミュージカルの延長線上で、作曲家「ミッシェル・カマ」、歌手やなせたかしとしてCDデビュー[3]。
詩人としては、2003年に『詩とメルヘン』が休刊するものの、2007年にかまくら春秋社から季刊誌『詩とファンタジー』を立ち上げ、「責任編集」を務めた。
ユニークで元気なキャラクターを演じ続けそのイメージが強いが、アンパンマンのヒットの時期から既に体調は必ずしも良好ではなく、60歳代末期には腎臓結石、70歳代には白内障、心臓病、80歳代には膵臓炎、ヘルニア、緑内障、腸閉塞、腎臓癌、膀胱癌、90歳代には腸閉塞(再発)、肺炎、心臓病(再発)と病歴を重ねていた。膀胱癌は10度以上再発している。
晩年はチャイドルをもじって「オイドル」(老いドル、老人のアイドル)を自称していた[19]。
2011年(平成23年)春に視界がぼやけることを理由に漫画家引退を考え、最後の大舞台として生前葬を企画。友人らに告別式の文章を書いてもらい「清浄院殿画誉道嵩大居士」という戒名入りの位牌も準備したが、その発表直前に東日本大震災が発生し、不謹慎だからという理由で計画は白紙になった[20]。震災直後「アンパンマンのマーチ」が復興のテーマソング的扱いをされたり、「笑顔を失っていた子供たちがアンパンマンを見て笑顔を取り戻した」といった良い話がやなせの元に届いたことから[21][22]、引退を撤回したという。その後、被災地向けにアンパンマンのポスターを制作したり、奇跡の一本松をテーマにしたCDを自主制作するなどした。
2012年(平成24年)6月の日本漫画家協会賞の贈賞式を最後に、高齢と体調不良を理由に日本漫画家協会の理事長を辞任して会長に就任。後任の理事長はちばてつや。
その後もユニークなキャラクターは変えず、テレビのインタビューやアニメの舞台挨拶の席では、陽気に歌いだす、元気な感じで「もうすぐ俺は死ぬ」と言って笑いをとるなどしていた。2013年(平成25年)7月6日に行われた劇場版アニメ「それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ」の初日舞台挨拶では、
なんとか今のところは死なないでいるんだけど、まもなくだね。病院からはあと2〜3週間しか生きられないって言われてる。死ぬ時は死ぬんだよ。笑いながら死ぬんだよ。そうすれば映画の宣伝になる。死ぬまで一生懸命やるんだよ
と笑いながら語っていた[23]。
2013年8月に体調を崩して入院し、2ヶ月後の10月13日午前3時8分、心不全のため東京都文京区本郷の順天堂大学医学部附属順天堂医院で逝去。94歳没[24][25]。死去の知らせは一般には翌々日の15日に公表され[26]、出身地の地元紙である高知新聞は、号外をWeb上で公開した[27]。
テレビのニュースでは、2013年6月に「アンパンマン」のアニメ製作のスタッフらに
来年までに俺は死ぬんだよね。朝起きるたびに、少しずつ体が衰弱していくのが分かるんだよね。まだ死にたくねぇよ。(ようやく人生が)面白いところへ来たのに、俺はなんで死ななくちゃいけないんだよ
と悲痛な本音を吐露する当時94歳のやなせの姿が繰り返し放送された。同日、NHKも夜のニュースでアンパンマンのアニメを暫らく流すなどして逝去を惜しんだ。やなせが死去した3日前には、やなせ原作のアニメ『ニャニがニャンだー ニャンダーかめん』に出演した声優の檀臣幸も50歳の若さで死去している。
その後、葬儀は故人の遺志により、近親者のみで済ませた。後日「偲ぶ会」を開く予定とされ[28][29]、翌2014年(平成26年)2月6日、生きていれば95歳となる誕生日に東京都新宿区で「ありがとう!やなせたかし先生 95歳おめでとう!」というタイトルで開催された[30]。やなせの密葬には、ちばてつやをはじめとする日本漫画家協会所属の漫画家60人が参列したという。
やなせの訃報を受けて、『手のひらを太陽に』を歌唱した宮城まり子[31]、アニメの「それいけ!アンパンマン」でアンパンマンの声を演じる戸田恵子[32]をはじめ、主要キャラクターの声を担当する声優達[33]、古川登志夫など、故人と縁が深かった人や敬愛する人々がそれぞれ追悼コメントを発している[34]。前後して、詩人としても死を意識した作品が増加している。やなせ自身が責任編集を行い、かまくら春秋社から発行されている季刊誌『詩とファンタジー』No.24号(2013年10月19日発売)に、「天命」と題して自らの死を予告するような自作の詩とイラストを掲載した[35]。フレーベル館から『アンパンマンとリンゴぼうや』が2013年11月に発売され、これがやなせの最後の作品となった[25]。
同年11月にはフレーベル館から、やなせの多方面に及んだ活動を網羅した作品集『やなせたかし大全』が出版。奇しくも逝去直後の出版になるが制作そのものは数年前から続けられていたものである(出版は「やなせたかし作家活動60年」、絵本『あんぱんまん』40年、アニメ『それいけ!アンパンマン』放映25年を記念したものとされている)。
晩年には家族や親戚がいなかったこともあり、やなせは生前自身の遺産について、アンパンマンミュージアム(高知県)とやなせスタジオ(東京)に回すよう周囲に伝えていたという。自身の墓は高知県香美市香北町にある実家の跡地である「やなせたかし朴ノ木公園」に建設し、墓碑の横にはアンパンマンとばいきんまんの石像も建てられた[36][18][37]。
2016年(平成28年)6月には、やなせが子ども時代を過ごした柳瀬医院の跡地(高知県南国市)に「やなせたかし・ごめん駅前公園」が完成し、やなせの母校の後免野田小学校の児童と後免野田保育園の園児が参加して6月1日に開園セレモニーが挙行された[38][39]。
2019年(平成31年)2月6日から、生誕100年を記念し、故郷の高知県香美市にある香美市立やなせたかし記念館で特別展が開催された。開催期間は2019年7月8日まで[40]。
![]() | この節の加筆が望まれています。 |
※太字はアニメ化された作品を指す。
※作曲家「ミッシェル・カマ」はやなせの別名義
それいけ!アンパンマン関連の楽曲は、そのほとんどをやなせが作詞を手がけている。
他
やなせ以外の作家が、やなせを題材にして創った作品や雑誌の特集記事など。