アドルフ・デシェノー Adolphe Déchenaud | |
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生誕 |
1868年6月28日 フランス,Saint-Ambreuil |
死没 |
1926年12月27日 フランス,ヌイイ=シュル=セーヌ |
アドルフ・デシェノー(Adolphe Déchenaud、1868年6月28日 - 1926年12月27日)はフランスの画家である。歴史画、肖像画を描いた[1] 。
ソーヌ=エ=ロワール県のサンタンブル(Saint-Ambreuil)で生まれた。父親はパリのレストラン経営者である。パリで育ち15歳で、私立の美術学校、アカデミー・ジュリアンに入学しジュール・ジョゼフ・ルフェーブル、ギュスターヴ・ブーランジェ、ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタンに学んだ[2] 。
1885年に、国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)の入学試験を受けたが、1886年に兵役に招集され、1年間軍務についた。退役後、美術学校に戻った。1891年に『バウキスとピレーモーン』を描いた作品は「ローマ賞」の2位に終わったが、3年後、『ソクラテスの死』を描いて、ラルー(Auguste Leroux)とともにローマ賞を受賞した。ローマ賞の特典で、ローマに留学し、1898年まで在ローマ・フランス・アカデミーに留学した。ローマではともに留学していたアンドレ・ドゥヴァンベ、フランソワ=レオン・シカール、ポントレーモリ(Emmanuel Pontremoli)らの肖像画を描いた。パリに戻り、1899年からサロン・ド・パリに出展し、1900年1901年には入選した。1913年にサロンで、名誉メダルを受賞した[2] 。
第一次世界大戦が始まると、フランスの有力な25人の事業家を描いた「工業委員会」(Le comité des forges)という作品を描くことによって戦争協力した。
1908年にレジオンドヌール勲章(シュバリエ)を受勲した。1918年にラファエル・コランの後任として芸術アカデミーの会員に選ばれた。