アベル・ボナール Abel Bonnard | |
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アベル・ボナール(1930年代) | |
誕生 |
1883年12月19日 フランス、ヴィエンヌ県ポワティエ |
死没 |
1968年5月31日(84歳没) スペイン、マドリード |
職業 | 作家、詩人、随筆家、政治家 |
言語 | フランス語 |
国籍 | フランス |
最終学歴 |
リセ・ルイ=ル=グラン エコール・デュ・ルーヴル パリ文科大学 |
代表作 | 『友情論』 |
主な受賞歴 |
アカデミー・フランセーズ文学大賞 アカデミー・フランセーズ詩賞 レジオンドヌール勲章オフィシエ |
デビュー作 | 『親しき人々(Les Familiers)』 |
ウィキポータル 文学 |
アベル・ボナール(Abel Bonnard、1883年12月19日 - 1968年5月31日)は、フランスの詩人、随筆家、政治家。コラボラトゥールとしてヴィシー・フランスの国民教育大臣を務めた。
中西部のヴィエンヌ県ポワティエに生まれ、パリのリセ・ルイ・ル・グラン、エコール・デュ・ルーヴル、パリ文科大学で文学を学び[1]、1906年の『親しき人々(Les Familiers)』(同年アカデミー・フランセーズ詩賞受賞)[2]など3冊の詩集で華々しく文壇にデビューした。1924年には紀行『中国にて(En Chine)』でアカデミー・フランセーズ文学大賞を受賞したが[3]、1930年代に右翼団体アクシオン・フランセーズのシャルル・モーラスと親交を結んでファシズムに傾斜する[4][5]。1932年6月16日にアカデミー・フランセーズの会員に選出される[1]。1940年のナチス・ドイツによるパリ陥落後、ヴィシー政権で1942年から1944年まで国民教育相を務めたが[1][6]、パリ解放後の対独協力者に対する粛清を逃れるために、ドイツ南部のジクマリンゲンを経てスペインへ亡命した。このときアカデミー・フランセーズを除名された[1]。1945年7月4日に欠席裁判により死刑判決を受け[1][7]、1960年に再審を受けるために帰国したが、再度スペインへ移住し、1968年にマドリードで死去した[7]。
日本では『友情論』(1928年)の著者として知られ、複数の著名な文学者が翻訳している。
前任 シャルル・ル・ゴフィ |
アカデミー・フランセーズ 席次12 第16代:1932年 - 1944年 |
後任 ジュール・ロマン |