アミール・ハーン・ムッタキー | |
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امیر خان متقی | |
2021年、インタビュー中のムッタキー | |
アフガニスタン外務大臣代行 | |
就任 2021年9月7日 | |
首相 | ハッサン・アフンド (仮) |
代理官 | シェール・モハンマド・アッバス・スタネクザイ (仮) |
指導者 | ハイバトゥラー・アクンザダ |
前任者 | ムハンマド・ハニーフ・アトマル |
アフガニスタン教育大臣および情報・文化大臣 | |
任期 1996–2001 | |
指導者 | ムハンマド・オマル |
後任者 | ヌールッラー・ムニール (2021) |
個人情報 | |
生誕 | 1971年2月26日(53歳) |
国籍 | アフガニスタン |
所属 | ターリバーン |
アミール・ハーン・ムッタキー (パシュトー語: امیر خان متقی [ˈamɪr xɑn mʊtaˈqi]、1971年2月26日 - )は、ターリバーン統治下のアフガニスタン・イスラム首長国の政治家で、2021年9月7日から外務大臣代行を務めている[1]。彼はまたカタール事務所の交渉チームのメンバーでもあった[2]。
1971年2月26日にヘルマンド州の村に生まれで、ルーツはパクティア州であるが、地元の学校とモスクで初等教育を受けた。共産主義のサウル革命の影響で家族と共に隣国パキスタンへ引っ越しを余儀なくされ、そこでマドラサに入学し、アラビア語の文法などの科目、論理、修辞学、フィクフ(イスラム法学)、ハディース、コーラン解釈学を学んだ[3]。
ムッタキーはパキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州にある、影響力を持つ多くのターリバーンの人物が卒業した神学校、ダルル・ウルーム・ハッカニア(en:Darul Uloom Haqqania)でイスラームの高等教育を続けた[4]。
アフガニスタンのジハードの間、マウルヴィ(イスラム指導者)、ムハンマド・ナビ・モハマディのグループの一人であったが、後にターリバーン運動が起こったときに運動に参加していた[5]。
ムッタキーは1996年から2001年にかけての情報・文化大臣、ターリバーン政権の代表として国連主導の協議に参加した[6][7]。親ターリバーンの情報源によれば、彼の「革新的活動」は「敵の広範囲のメディア侵略対する規律正しいジハード発行装置」と賞している[8]。
2021年8月17日、カーブルがタリバンによって陥落した直後、彼はカーブルにおいて、アブドラ・アブドラやハミド・カルザイなどの非タリバン政治家と政府樹立について会談していると報じられた[9]。ターリバーン軍は2021年3月よりアフガニスタン政府に対する軍事攻撃を始めていたが、2021年8月15日にアフガニスタンの首都カーブルを制圧した。
2021年9月7日、ターリバーンは、8月15日にカーブル奪回で政権を握ってから3週間後、新しい仮政府の最初のメンバーを発表した。アミール・カーン・ムッタキーがアフガニスタンの外務大臣代行に任命された[1]。
2021年12月、ムッタキーはアフガニスタン代表としてイスラム協力機構の会議に出席し[10]、中国、ロシア、アメリカ合衆国そして他の57カ国の参加国が代表団として参加した[11]。 ムッタキーはパキスタン首相イムラン・カーンとアフガニスタン・パキスタン国境地域におけるイスラム国の脅威についても会議を開いた[12]。
2004年、ムッタキーはターリバーン指導部によって禁止された本を書いたが、その一部は公開できないものとした[13][14]。