アメリカ合衆国領土の変遷(アメリカがっしゅうこくりょうどのへんせん、英:Territorial evolution of the United States)は、アメリカ合衆国の内外境界の変更、さらにはその状態と改名を含む変遷の一覧である。領土の図には最終的にアメリカ合衆国の一部となった周辺地域も示す。各段階ごとに地図があり、その時にどのような具体的変化があったかを示す。
1783年のパリ条約で独立を達成した後のアメリカ合衆国は西方に拡張し、その境界を7度広げたが、イギリスとスペインの植民地との間にそれぞれ1回の大きな国境調整があり、また数度の小さな論争があった。最初の13州が50州にまで成長し、その大半は準州として始まって州に昇格した。この成長の一般的なやり方は、領土の拡大、新規獲得領地から準州の成立、これら準州の境界修正、そして最後の州昇格という過程を通った。ネバダ州とミズーリ州の2州は州になってから大きくなり、ジョージア州、マサチューセッツ州、ノースカロライナ州、テキサス州およびバージニア州の5州は新しい州を創設するために小さくなった。
アメリカ合衆国憲法が発効となり新しい国家ができた。州によって憲法を批准した日付は異なるが、地図は単純化のために最終結果のみ示した。
アメリカ合衆国は1783年9月3日のパリ条約でイギリスからの独立を果たし、13植民地は独立した主権国家 (state) となった。境界は条約第2条で規定されたが、2つの大きな問題を持っていた。第一に、条約では中部北辺の境界は「ウッズ湖から真西に伸び、ミシシッピ川に至る線」とされたが、ミシシッピ川の水源はその線のずっと南にあり、つまりそこで終わってしまっているのでウッズ湖から真西に伸びる線ではミシシッピ川に突き当たらない。このことは条約制定当時には判っていなかったが、実際の境界はウッズ湖から真南に伸び、ミシシッピ川に突き当たる線となった[3]。
現在の国境に慣れた者にとっては幾つかの特異な点がある。多くの州はイギリス王室から海から海までの土地勅許を得ており、簡単には諦めなかったが、この日までにアメリカ独立戦争で負った負債と引き換えに連邦政府に対してその土地を譲渡した。しかし、ジョージア州が譲渡したのはだいぶ遅くなってからであり、コネチカット州は大部分を譲渡したがその西部保留地だけは残した。バージニア州はオハイオ川の北と西の領土の領有権を譲渡したが、この土地が非自治的領域になった。ノースカロライナ州もその西部郡部に対する領有権を譲渡したが、連邦議会がそれを正式に認めたのは1790年になってからだった。ニューヨーク州はエリー三角形に対する領有権主張を連邦政府に譲った。この時点でジョージア州とバージニア州を除き全ての州は現在の姿になった。ただし、前述のように小さな問題は幾つか発生した。
西フロリダはアメリカ合衆国が主張したよりもさらに北の境界を主張した。その境界はスペインがイギリスに譲渡したときに北緯31度線だった。イギリスはその境界を後に32度38分まで上げたが、パリ条約でスペイン領フロリダがスペインに戻された時、イギリスは境界が北緯31度線であると主張したのに対し、スペインは北側の境界を主張し続けた[4]。またマサチューセッツ州の北部メイン地区およびスペリオル湖北西の地域の境界は論争が残った。
ペンシルベニア州とデラウェア州の間の楔形領域は17世紀以来論争が続き、両州の間の論点であり続けた。
バーモント共和国は複雑な問題であり、ニューヨーク州とニューハンプシャー州が領有権主張していたが、事実上の未承認独立国として存在していた。
アメリカ合衆国議会はオハイオ川北西の領土、すなわち北西部領土の自治化を北西部条例の条項で確認した[5]。北西部領土は現在のイリノイ州、インディアナ州、ミシガン州、ミネソタ州北東部、オハイオ州大半およびウィスコンシン州で構成された。北西部領土は1787年7月13日に連合規約下で自治化されており、新憲法下では幾らか修正された。
アメリカ合衆国議会はノースカロライナ州の西部郡部割譲を認めた。これは前年の1789年12月22日に予め割譲済みとなっていた。これにより、この土地は非自治的領域となった[6]。
南西部条例によってオハイオ川の南の領土すなわち南西部領土を自治化した。これは現在のテネシー州に相当する[7]。
バーモント共和国は、その一部についてニューヨーク州とニューハンプシャー州が領有権を主張しており、事実上未承認独立国として存在していたが、合衆国14番目の州、バーモント州として加盟を認められた。
連邦直轄地としてのコロンビア特別区がメリーランド州とバージニア州から割譲された土地に形成された。バージニア州の土地は1847年に返還された[8]。
連邦政府はエリー三角形をペンシルベニア州に売却した[9]。
バージニア州のうちアパラチア山脈より西の郡部が分割され、ケンタッキー州として合衆国15番目の州となった。
ピンクニー条約、またの名はサンロレンゾ条約で西フロリダ北の境界を北緯31度線で決着した[10]。
南西部領土はテネシー州として合衆国第16番目の州になった。
ヤズー土地詐欺事件のために、ジョン・アダムズ大統領が署名した法律で、ジョージア州西部の土地譲渡について同州と交渉する代理人を指名することを可能にした。この法では西フロリダが割譲した地域にミシシッピ準州を創設した。これは現在のミシシッピ州とアラバマ州の南側およそ3分の1に相当するが、西フロリダの一部だったパンハンドル地域は除外された[11]。
北西部領土を2分割し、西側部分をインディアナ準州とした[12]。これは現在のイリノイ州、インディアナ州、ミネソタ州北東部およびウィスコンシン州と、ミシガン州のロウアー半島西半分とアッパー半島の東端部を除く全部に相当した。北西部領土はオハイオ州の大半とミシガン州の残り部分だけになった。
コネチカット州はその西部保留地を連邦政府に譲渡し、そこは北西部領土の一部となり、現在ではオハイオ州の北東部となっている[13]
また、1800年10月1日、第三次サン・イルデフォンソ条約により、フランス領ルイジアナがスペイン帝国からフランス帝国に移管された[14]。
ジョージア州は最終的にその西部領有権、すなわちヤズー土地を連邦政府に譲渡し、そこは非自治的領域となった[15]。
北西部領土南東部がアメリカ合衆国第17番目の州、オハイオ州として加盟を認められた。北西部領土の残りはインディアナ準州が吸収した[12]。
ルイジアナ買収が行われ、アメリカ合衆国はミシシッピ川を超えて西に拡大した。西フロリダとの間にはミシシッピ川の東にどれだけの土地が含まれていたかについて論争があった[16]。ルイジアナ買収の範囲は、単にミシシッピ川の流域と定義されていたために、現在の国境より幾分北側まで延びていた[17]。買収範囲には現在のアーカンソー州、カンザス州、アイオワ州、ミズーリ州、ネブラスカ州およびオクラホマ州の全地域と、コロラド州、ルイジアナ州、ミネソタ州、モンタナ州、ニューメキシコ州、ノースダコタ州、サウスダコタ州、テキサス州およびワイオミング州の一部が含まれていた。また現在のカナダ、アルバータ州、マニトバ州およびサスカチュワン州の南端部も含まれていた。
ジョージア州が放棄し非自治的領域となっていた部分はミシシッピ準州に吸収された。ミシシッピ準州は現在のミシシッピ州とアラバマ州の全域にあたり、このときはまだ西フロリダの一部だったパンハンドル(細長い土地)だけが領域に入っていなかった[18]。
ルイジアナ買収により獲得した土地は、南部の一部(現在のルイジアナ州とテキサス州の小部分にあたる)をオーリンズ準州として自治化し、残り部分は依然自治化されないままだったが、暫定的にルイジアナ地区としてインディアナ準州が管轄することとされた[19]。オーリンズ準州の西部境界はヌエバ・エスパーニャとの紛争になった。特に西のサビーン川から東のアロヨ・ホンド川に挟まれた地帯はルイジアナ中立地 (Neutral Ground of Louisiana) と呼ばれることになった。この土地は後に1819年のアダムズ=オニス条約によってアメリカ領と確定した。
インディアナ準州からミシガン準州が分離され、現在のミシガン州ロウアー半島の全体を含んだが、アッパー半島はインディアナ準州が北西部領土から分離した時に東端部のみを含んでいたので、そこだけがミシガン準州に含まれた[12]。
ルイジアナ地区が自治化されてルイジアナ準州が起立された[20]。
インディアナ準州からイリノイ準州が分離された。イリノイ準州には現在のイリノイ州、ミネソタ州北東部、およびウィスコンシン州が含まれた。インディアナ準州には現在のインディアナ州の領域に加えてその東西の州境は北に伸ばされた形だった。これはミシガン州のアッパー半島中央部とウィスコンシン州ドア半島も含むことになった[12]。
ジェームズ・マディソン大統領の声明により、アメリカ合衆国は西フロリダのバトンルージュとモービル地区を併合し、ルイジアナ買収の一部と宣言した。これらはその90日前に西フロリダ共和国の独立を宣言していた[22]。
オーリンズ準州の大半が合衆国第18番目の州、ルイジアナ州として加盟した。準州の残り部分(北西端部)はルイジアナ準州に譲られた。
連邦政府は西フロリダの一部、モービル地区をミシシッピ準州に併合し、現在のアラバマ州とミシシッピ州を併せたものに相当するようになった[23]。
ルイジアナ準州は既に昇格した州と同じ名前を持っていたので、ミズーリ準州と改名された[24]。
インディアナ準州のミシガン湖以南の部分が合衆国第19番目の州、インディアナ州として加盟を認められた。準州の残り(ミシガン湖以北部分)は自治的領域ではなくなった[12]。
ミシシッピ準州からアラバマ準州が分離した。どちらの準州も現在の州に相当する[25]。
ミシシッピ準州は合衆国第20番目の州、ミシシッピ州として加盟した。
1818年条約によってウッズ湖より西の北緯49度線がイギリス領との境界に設定され、アメリカとイギリスの共同領土としてオレゴン・カントリーが設立された[26]。オレゴン・カントリーは今日のアイダホ州とオレゴン州の大半、ワシントン州全域およびモンタナ州の一部、またカナダのブリティッシュコロンビア州南部に相当する。この条約によって、ミネソタ州北西部、ノースダコタ州北東部およびサウスダコタ州北東部からなるレッド川流域をアメリカ合衆国に移管した。
イリノイ準州の南部が合衆国第21番目の州、イリノイ州として加盟した。イリノイ準州の残り部分はミシガン準州と併合されミシガン準州となった[12]。
ミズーリ準州の南部がアーカンソー準州(Arkansaw Territory)として編成され、現在のアーカンソー州とオクラホマ州の一部で構成された[27]。名前の綴りが公式に"Arkansas"とされたのは後のことである。
アラバマ準州が合衆国第22番目の州、アラバマ州として加盟した。
マサチューセッツ州のメイン地区が分離し、合衆国第23番目の州、メイン州として加盟した。これはミズーリ妥協の一部だった。
アダムズ=オニス条約が発効となった。これによりアメリカ合衆国とヌエバ・エスパーニャとの境界問題が決着した。この条約の条項により、スペイン領フロリダの全てがアメリカ合衆国に売却された[28]。この条約では今日のアイダホ州とオレゴン州の一部もオレゴン・カントリーに移管され、現在のコロラド州、オクラホマ州とワイオミング州の一部、ニューメキシコ州とテキサス州の全部はヌエバ・エスパーニャに移され、フロリダ州全域がアメリカ合衆国に移された。新しい国境は1820年4月1日に設立されていたアーカンソー準州のミラー郡に入り、レッド川まで南下して、スペイン領となった土地に入った。しかし、その地域はスペインから遠かったために重大な紛争にはならなかった[29]。
ミズーリ準州南東隅部が合衆国第24番目の州、ミズーリ州として加盟した。準州の残りは非自治的領域となった。この時点のミズーリ州には北西部三角地帯は含まれておらず、1837年のプラット買収で追加された[30]。
ヌエバ・エスパーニャはメキシコとして独立を達成した。
東フロリダと、既に他の州に組み込まれていなかった西フロリダの部分が一つになってフロリダ準州として編成された。これは現在のフロリダ州に相当する[1]。この頃、アーカンソー準州の公式の綴りが"Arkansas Territory"となった[27]。
アーカンソー準州が縮小され、西側部分が非自治的領域となった[31]。
アーカンソー準州がさらに縮小されて現在のアーカンソー州領域となり、残り部分はミラー郡として領有主張されていた土地を除き再度非自治化した[31]。
現在のアイオワ州、ミネソタ州西部およびノースダコタ州とサウスダコタ州の東部からなる大きな非自治的領域がミシガン準州に付加された[12]。
テキサス共和国がメキシコからの独立を果たしたが、その領域の大半は論争が残った。テキサス共和国は現在のテキサス州東半分を支配し、その西半分とコロラド州、カンザス州、ニューメキシコ州およびワイオミング州の一部が論争となった。アーカンソー準州のミラー郡はテキサスの領内に入り、そこの住民はテキサス人としての認識を持つようになり、アーカンソー準州とテキサス共和国両方の政府に郡から代表を送った[29]。
アーカンソー準州は合衆国第25番目の州、アーカンソー州として加盟した。ミラー郡については領有権の主張を続けていたが、次第に不適当ということになっていった[29]。
ミシガン準州からウィスコンシン準州が分離し、今日のウィスコンシン州、ミネソタ州、アイオワ州およびノースダコタ州とサウスダコタ州の東部から構成された。トレド・ストリップに対する領有権主張をオハイオ州に譲る代償として現在のアッパー半島全域がミシガン準州の領域に当てられ、現在のミシガン州の領域ができた[12]。
ミシガン準州が合衆国第26番目の州、ミシガン州として加盟した[12]。
プラット買収によりミズーリ州に小領域が追加され、現在の領域に等しくなった[32]。
ウィスコンシン準州からアイオワ準州が分離され、現在のアイオワ州とミネソタ州西部、およびノースダコタ州とサウスダコタ州の東部から構成された。ウィスコンシン準州はミネソタ州北東部とウィスコンシン州の領域となった[12]。
ウェブスター=アッシュバートン条約により、アメリカ合衆国とイギリスがロッキー山脈より東に持っていた土地との間の境界を確定し、メイン州およびミネソタ州北東部の境界に関する論争を終わらせた[33]。
フロリダ準州が合衆国第27番目の州、フロリダ州として加盟した。
テキサス共和国が合衆国第28番目の州、テキサス州として加盟した。1845年3月1日にアメリカ合衆国に併合されていた[34]が、テキサスはその後も暫くは合衆国への加盟に同意していなかった。テキサス州には領有権を主張するメキシコの土地全てを含み、現在のテキサス州全域と、コロラド州、ニューメキシコ州、オクラホマ州およびワイオミング州の一部も含んでいた。テキサス州が合衆国に加盟したことで、アーカンソー州はミラー郡に対する領有権を諦めた。
オレゴン条約により、イギリスが所有していた土地との大陸国境として、ウッズ湖の西は北緯49度線とすることになった(バンクーバー島は含まれなかった)。オレゴン・カントリーの共同領有は終わり、アメリカ側の土地は編入され非自治的領域となった[35]。
アイオワ準州の南東部が合衆国第29番目の州、アイオワ州として加盟した。準州の残りは非自治化した[12]。
コロンビア特別区からポトマック川南岸の土地をバージニア州に返還した。連邦議会は1846年7月9日に返還法を成立させ、この日にバージニア州が領有を再開した[36]。
グアダルーペ・イダルゴ条約で米墨戦争を終結させ、メキシコから広大な領土を獲得した[37]。そこは現在のカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州の全域と、アリゾナ州の大半、およびコロラド州、ニューメキシコ州とワイオミング州の一部となっている。
ウィスコンシン準州の南東部が合衆国第30番目の州、ウィスコンシン州として加盟した。準州の残りは非自治化した[12]。
オレゴン準州が編成され、現在のアイダホ州、モンタナ州北西部、オレゴン州、ワシントン州およびワイオミング州西部を含むことになった[38]。
ミネソタ準州が編成され、今日のミネソタ州およびノースダコタ州とサウスダコタ州の東部を含むこととされた[39]。
1850年協定の一部としてメキシコ割譲地が分割された。割譲地の西部は合衆国第31番目の州、カリフォルニア州として加盟を認められた。残りはユタ準州とニューメキシコ準州として編成された。両準州にはテキサス州がその負債の見返りとして連邦政府に譲渡した土地も含まれた。テキサス州とメキシコ割譲地の一部は非自治的領域となった[40]。テキサス州北部の小さな帯状地はどの州や準州にも公式に割り当てられないという特異な状況が現出した。ここは中立帯あるいは「無人の土地」と呼ばれるようになり、現在ではオクラホマ州のオクラホマ・パンハンドルに相当する[41]。ニューメキシコ準州は現在のアリゾナ州とニューメキシコ州の大半と、コロラド州の南部およびネバダ州南端から構成された。ユタ準州は現在のユタ州、ネバダ州の大半およびコロラド州とワイオミング州の一部から構成された。
オレゴン準州からワシントン準州が分離され、現在のワシントン州、アイダホ州北部およびモンタナ州西端から構成されることになり、オレゴン準州は現在のオレゴン州全域、アイダホ州南部およびワイオミング州の一部ということになった[42]。
ガズデン購入により、現在のアリゾナ州とニューメキシコ州の南端部に相当する地域がニューメキシコ準州に付加された[43]。
カンザス準州とネブラスカ準州が編成された。残る非自治的領域はインディアン準州と呼ばれるようになった[44]。カンザス準州は現在のカンザス州とコロラド州東部で構成され、ネブラスカ準州は現在のネブラスカ州とコロラド州、モンタナ州、ノースダコタ州、サウスダコタ州およびワイオミング州の一部で構成された。インディアン準州はオクラホマ州東部に相当する。
ミネソタ準州東部が合衆国第32番目の州、ミネソタ州として加盟した。準州の残りは非自治的領域となった[12]。
オレゴン準州西部が合衆国第33番目の州、オレゴン州として加盟した。準州の残りはワシントン準州に割り当てられた[45]。
テキサス州は、当時連邦政府が管理していたグリア郡の領有権主張を始めた。ここは現在オクラホマ州に入っている[46]。
カンザス準州東部が合衆国第34番目の州、カンザス州として加盟した。西部については特異な状態ができた。そこは1861年2月28日にコロラド準州に付加されたが、カンザス州成立からコロラド準州形成までの1ヶ月間は公式の位置付けが無いままだった[47]。
アメリカ連合国が結成された。南部州は異なる日付で合衆国から脱退し、アメリカ連合国に加盟したが、地図の簡略化のためにアメリカ連合国の最終形を示す。ケンタッキー州とミズーリ州には南部と北部の両政府が存在し、インディアン準州は南部が支配した。南北戦争前後の動きはCSA states evolutionで参照できる。
コロラド準州が編成され、これにはユタ準州、ニューメキシコ準州およびネブラスカ準州からの土地とカンザス準州の残りの土地が含まれた。現在のコロラド州の領域に相当する[47]。またワシントン準州の東端はネブラスカ準州に移管された。
ネブラスカ準州からダコタ準州が分離され、ミネソタ準州設立時に残されて非自治的領域となっていた領土もこれに含まれた。ダコタ準州は現在のノースダコタ州とサウスダコタ州、およびモンタナ州の大半とワイオミング州北部で構成された。ネブラスカ準州はネブラスカ州とワイオミング州南東部ということになった[48]。ユタ準州からネバダ準州が分離され、現在のネバダ州北西部ということになった。東部州境はワシントンD.C.から西経39度離れた線とされた[49]。
アメリカ連合国が合衆国ニューメキシコ準州の南半分にアリゾナ準州を設立した。1862年2月14日に自治化されることとされた。現在のアリゾナ州とニューメキシコ州の南半分に相当する[50]。
ネバダ準州の鉱山と放牧という性格のために土地が付加された。その東部州境はワシントンD.C.から西経39度離れた線から38度離れた線とされ、それまでのユタ準州管轄から移管された[51]。
北部はニューメキシコ準州から分離する形で独自のアリゾナ準州を創設し、両準州は今日の州の形に相当するものとなったが、アリゾナ準州にはネバダ州の南端も含まれていた[52]。
ワシントン準州、ダコタ準州およびネブラスカ準州の部分からアイダホ準州が編成され、現在のアイダホ州、モンタナ州およびワイオミング州の大半から構成された。ネブラスカ準州とワシントン準州は今日の州の形に相当するようになった[53]。
バージニア州北西部の郡部でアメリカ連合国の一部となることを望まなかったところが分離し、合衆国第35番目の州、ウェストバージニア州として加盟した。
アイダホ準州からモンタナ準州が分離し、ダコタ準州からも一部の土地を併合した。モンタナ準州は今日のモンタナ州に相当し、アイダホ準州はアイダホ州とワイオミング州西部ということになった。ダコタ準州はノースダコタ州とサウスダコタ州およびワイオミング州大半となった[54]。
ネバダ準州が合衆国第36番目の州、ネバダ州として加盟した。当時の姿は今日のものより幾らか小さく、東部と南部に欠けている所があった。
アメリカ連合国が降伏した。レコンストラクション時代および合衆国への再加盟には数年を要した。地図は簡略化のため、全州が再加盟した状態で示した。この間の動きについてはCSA states evolutionを参照。
ネバダ州の東州境はワシントンから西経38度線から37度線まで移され、ユタ準州の土地が移管された[51]。
アリゾナ準州北西隅がネバダ州に移管され、ネバダ州は今日の姿になった[55]。
ネブラスカ準州が合衆国37番目の州、ネブラスカ州として加盟した。
アメリカ合衆国はロシアからアラスカを購入した。アラスカ県と指定され、アラスカ国境問題の地域を除き今日のアラスカ州の姿に相当している[56]。
ワイオミング準州がダコタ準州、アイダホ準州およびユタ準州の部分から編成された。これは現在のワイオミング州に相当する[57]。
イギリスとのブタ戦争を正式に終わらせ、アメリカ合衆国にはサンフアン島が与えられた。
コロラド準州が合衆国第38番目の州、コロラド州として加盟した。
ダコタ準州のうち、北緯43度線の南、ケヤパハ川とネブラスカ川の北がネブラスカ州に移管された[58]。
アラスカ県は連邦政府と郡の直轄地だったが、アラスカ地区として指定され、地方政府が置かれた[59]。
ダコタ準州が2分割され、合衆国第39番目の州ノースダコタ州、第40番目の州サウスダコタ州が加盟した。
モンタナ準州が合衆国第41番目の州、モンタナ州として加盟した。
ワシントン準州が合衆国第42番目の州、ワシントン州として加盟した。
インディアン準州の西部からオクラホマ準州が編成され、中立帯を含み、現在のオクラホマ州西半分となった[60]。
アイダホ準州が合衆国第43番目の州、アイダホ州として加盟した。
ワイオミング準州が合衆国第44番目の州、ワイオミング州として加盟した。
ハワイ王国がハワイ共和国となった[61]。
ユタ準州が合衆国第45番目の州、ユタ州として加盟した。
アメリカ合衆国最高裁判所は公式にグリア郡をオクラホマ準州に所属すると裁定した[62]。
ハワイ共和国はアメリカ合衆国に併合された[61]。
併合されたハワイ諸島はハワイ準州(Territory of Hawaii)として編成され、パルミラ環礁を含んでいることを除き、現在のハワイ州の姿になった[61]。
アラスカ国境問題が調停により解決し、概ねアメリカの主張に近い形となった。
オクラホマ準州とインディアン準州が合併し、合衆国第46番目の州、オクラホマ州として加盟した。
ニューメキシコ準州が合衆国第47番目の州、ニューメキシコ州として加盟した。
アリゾナ準州が合衆国第48番目の州、アリゾナ州として加盟した。
デラウェア州とペンシルベニア州の間で論争が続いていた楔形の土地(ウェッジ)1平方マイルについて、デラウェア州に有利な形で最終解決された[64]。
アラスカ準州が合衆国第49番目の州、アラスカ州として加盟した。
ハワイ準州(Territory of Hawaii)が合衆国第50番目の州、ハワイ州として加盟し、現在のアメリカ合衆国に相当する形になった。州昇格の際にパルミラ環礁が除外された。パルミラ環礁はハワイ準州の一部として編入されていたので、アメリカ合衆国では唯一編入済み領域となった。
1970年国境条約で、テキサス州リオ・リコ市がメキシコに割譲された。移管は1977年に正式となり、メキシコのタマウリパス州に加えられた。